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得ようとするなら、何もしないこと
師匠から『素直になりなさい』と言われたことがあります。
素直になるとは我がままになること、好き放題すること、人の事を省みないこと、遠慮しないこと等を想像する人がいるかもしれません。
ですがそれはただのエゴ的行動に過ぎません。
素直になるとはこのような行動の元になる思いを抱き参らせることです。
子供の頃はどんな思いも正直に言えるものですが、大人になるにつれ思いを正直に言うことが出来なくなってきます。
自分の思いを恥じたり、罪悪感をもったり、人にバレないように隠したり、目を背けて蓋をすることを習慣的に続けているとそれらの行為が普通のこと、当たり前となってきます。
そんなことをしても消え去ることはなく、むしろ内部的な不調和を生み出し続けることになります。
内側が外側に現れるから、個人の内部的な不調和は世界の不調和として、多くの人に影響を与え続けることになります。
故にいかなる思いや考えがあっても、素直に向き合うことが必要なんです。
なぜ素直に向き合うことが必要かというと、それとともにあって消え去るからです。
人は自らの記憶を通して世界を見ています。
自分と向き合えないことは自分を否定することになります。
出発点である自分を否定することは一切を否定することになります。
一切を否定した世界に安心や喜びなどあるでしょうか?
素直に向き合うことで苦しく、辛い思いをするかもしれませんが、実践し続けることで意識が変わってくるのを実感するでしょう。
苦しい、辛いと思い込んでいた幻想は近寄っていくほど消え去るからです。
苦しい、辛いという幻想をつくり出したのは他ならぬ自分ですから、消し去ることが出来るのも自分しかいません。
恐怖や憎しみ、不満などを持ち続けている人は原因を内側に見ないから、いつまでたっても変わらないんです。
素直に向き合うこと、それとともにあることは外側から見ると何もしていないように見えます。
また解決しようと外側を変えようとすることは内側にあるものから逃げることになります。
だから師匠は『解決しようとするな』『それとともにあれ』と事あるごとに教えてくれました。
これは師匠が言う『何もしないこと』ですが人には何もしないことが難しいから、何かをする教えを通して何もしないことを学ばなくてはいけないと言われます。
教えというものは至ってシンプルだと師匠は言います。
シンプルであるが故に極意とか秘伝なるものは存在しません。
あるとすれば、ひたすら一歩一歩続けることだけです。
以下は過去に師匠から学んだ時の教えです。
【師匠の教え①】
私は今そうではないと言う思いは深層の意識の中にあって普段は見ることが出来なく、奥山に行くまでは消えることはない。
私はそうではないと言う深層の意識が縁に触れて様々な思いを現す時、それに振り回されることなくただ見ていることでこの問題は解決される。
こういう思いが現れうるのは人の心の弱さの現れだけれども、思考で進んでいるかを追いかけることはまた心の弱さの現れだから追いかけずに恐れと共に在りなさい。
思考で恐れを解決しようとすることは逃げなんだ。
だから追いかけず、嫌わずにそれと共にあるのだ。
思考は貴方が追いかけることをやめたらそう長くは続かない。
貴方が大事だと追いかけることで維持されているのだから。
奥山はそういう思考と言う雲が晴れた時に目の前に現れる。
惟神、神の大道は日本人の道だ。
そうではないと言う思いは無明から来る人の意識の潜在的志向です。
決めつけているんじゃなく、分からないからそうだと思えないから、そうじゃないと感じるんです。
進んでいるかの答え探ししても意味はないのが分かればいいんだ。
捨てるゴミを漁っても意味がないだろう。
ゴミだと分かればそれでいいんだよ。
私はそう言う時は沈黙の中に留まりなさいって言ったんだよ。
思考もいいが奥山には思考では行けないんだ。
でもせっかく考えたんだからコメントしておくよ。
善でも悪でもなくても欲しいものは欲しだろう?
なら、『~でならなくてはならない』は消えないね。
それと共にあって初めて消え去るんだ。
恐れを持っていればロープも蛇に見えるかも知れない。
そう言う時はそれが蛇なのか追求するよりも恐れと共にありなさい。
それが何かを追求しても解決はしないんだ。
追求しても意味はないと分かるだけでいいんだ。
どこまでも思考を追いかけて行くな。
【師匠の教え②】
あるグルは『私は行為者ではないから見ていることしか出来ない』と言い、あるグルは『自由自在になりなさい』と言います。
これも山登りの景色の違いです。
東から登った者たちは頂上で西を見て、西から登った者たちは頂上で東を見ます。
行為をただ見ている状態がある者達から見ると自由自在なんです。
自由自在はある人たちから見るとただ見ている状態なんです。
仏教の景色は自由自在です。
今の流行りの景色は私は行為者ではないです。
ラジニーシはとても知的で私は何もしていないと言いながら、また自由自在だとも言いました。
恐れに怯え、恐れに突き動かされて行為することが不自由です。
ではなぜ恐れるのか?
恐れの前に無明があり、無明から恐れが現れ、その恐れに突き動かされている状態は外鏡に左右されて全く自由にならない状態です。
恐れからくる行為は恐れに支配されていて不自由で、だから苦しみます。
コントロールしようという行為は恐れから来るからコントロールせず、恐れと共に在りなさいと言うんです。
これが出来ると自由自在なんです。
自己のコントロールを放棄すると言うことが自由自在なんです。
得ようとしない者が得られるんです。
一切を欲するなら一切を捨てるんです。
恐れを知らず、断固として折れない意志を持ち、何事にも恐れず、決して諦めるということを知らず、しかも苦しむということも知らない人が出来るんです。
こう言う人のことを自分を支配した勝利者と呼びます。
お釈迦様も勝利者とも呼ばれていました。
ここで私が教えてきたのは無明に智慧で灯りをつけて、恐れに立ち向かう覚悟を養うことと恐れに突き動かされないでいることの二つです。
恐れに突き動かされないことが見ている、または恐れと共にあるで、それが可能になるように智慧で無明に明かりを灯しているんです。
『恐れと共にあることとは?』を知ることが恐れと共にある勇気を与えてくれるからです。
断固として折れない意志と謙虚も一つの状態を構成する二つのパーツです。
断固として折れない意志と委ねも一つの状態を構成する二つのパーツです。
断固として折れない意志がなければ決して委ねもありません。
委ねられている状態は断固とした意志がある状態なんです。
逆に見えるものが合わさって一つの状態を現す。
面白いね。
グルは人を見るとき意志の強さだけを見ます。
全く知識など関係ないんです。
悟りに、神に近いほど、近づくほど断固とした意志が備わり、また断固とした折れない意志がなければ神の御前に座ることは不可能と知っているからです。
道元さんをグルがその素質を見抜いたのも、空海さんのグルが空海さんを見抜いたのもその覚悟を見たんです。
グルとは覚悟しか見ないんです。
ここに来てどんな知識を得たかなどどうでもいいんです。
グルが欲するのは皆さんの強い意志と覚悟だけです。
グルはそれを欲して何かを教えるんです。
皆さん、様々に語るグル達の言葉に迷わされてはダメです。
自分の負荷を和らげて楽になろうとしても無理です。
肩に人の二倍も三倍も負荷を背負っても楽であることが本当の安楽です。
落とすのは心の負荷だけでいいんです。
心の負荷が落ちれば肩に人の二倍も三倍も負荷を載せても、心は安楽で決して折れないんです。
『負荷を背負いたくない』も恐れから来ます。
その恐れに突き動かされず、負荷を背負って恐れと共にあるんです。
皆さん、初めの恐れとは暗闇なんです。
暗闇であることが怖いんです。
知らないことが見えないことが怖いんです。
突き動かされず恐れと共にあってごらん。
怖いものではないことがその内に分かる事でしょう。
その奥にずっと入って行った所が皆さんの家だ。
今ここにあると言うことは恐れと共にあると言うことです。
断固として揺るがない意志がなければそんなこと不可能です。
だから智慧を使うんです。
馬鹿の一つ覚えのように今ここと言うのは無知と言うしかありません。
人を見て人に合ったことを言わねばなりません。
古いカビの生えたものを引っ張り出して来て杓子定規では、今の世界では何の役にも立ちません。
私の言うこと見てごらん。
全く行き当たりばったりで定規は一つもありません。
まあそれで困ることもあります。
何を言いたいかまとめろと言われてもさっぱり分かりません。
その時、その人に必要だと思うことを言っているだけです。
私にこれを言わせている神に聞いておくれと言うしかありません。
でも私は全く自由であって全く何もしてないんです。
自由だと言う感覚と自由だと言うことは自ずと違うからです。