見出し画像

捨てる者が得る

私たちは怒り、不満、恐怖、不安、嫌悪などの思いと無縁でいたいと思っています。

しかし、人類はいまだにそれらから無縁になる方法を見つけられないままです。

心に関する学問は沢山あります。

実際、私もいろんな学問を学んできましたが、心を完全に統御する方法を見つけることは出来ませんでした。

なぜ出来なかったかと言うと私の場合、前提が完全に間違っていたということです。

人は生まれた後の体験によりつくられた記憶で物事を判断します。

その記憶を否定したまま、何とかしようとしたわけです。

憎悪や嫌悪、恐怖を生むような考え方、価値観、性格。

それら全部から目をそらし、逃げ出し、臭いものに蓋をしていたわけです。

私にとって怒り、不満、恐怖、不安、嫌悪の感情は悪であり、みっともなく、かっこ悪く、恥ずべきものという前提でした。

当然、その感情に繋がる考え方、価値観、性格も同じように見ていました。

ようは自分が自分を嫌っていたわけです。

自分が自分を嫌うというのは一切の誤魔化しも、言い訳も通用しません。

それらと向き合うことはノーガード状態で攻撃を受けるようなものです。

故に目をそらし、逃げ出し、臭いものに蓋をしたくなるのは当然と言えば当然です。

それらと向き合うことは自分自身との戦いです。

イスラム教ではこれを内なる戦い『聖戦』と言うそうです。

これに勝利した者だけが怒り、不満、恐怖、不安、嫌悪などと無縁になるんです。

お釈迦さまが勝利者と呼ばれたのも、これらと向き合い続けたからです。

今まで向き合うことについては何度も書いてきました。

言い方を変えると否定しないことであり、嫌わないことです。

抱き参らせる、それとともにある、も同じ意味です。

この行為は何も得られない行為です。

何かを得ることに魅力を感じるのが人間なので、魅力を感じないかもしれません。

意味を見出せないかもしれません。

しかし、私が言っているのは怒り、不満、恐怖、不安、嫌悪などの思いの元を捨てることです。

これらを捨てると、どうなるでしょうか?

安心、平穏、歓喜を得るんです。

捨てる者が得るんです。

日月神示ではこのように書かれています。


日月神示
【水の巻 11帖】
日本にはまだまだ何事あるかわからんぞ。
早く一人でも多く知らしてやれよ。
魂磨けば磨いただけ先が見え透くぞ。
先見える神徳与えるぞ。
いくら偉い役人頑張りても、今までのことは何も役に立たんぞ。
新しき光の世となるのぞ。
古きもの脱ぎ捨てよと申してあろがな。
まこと心になりたならば、自分でもわからんほどの結構出て来るぞ。
手柄立さすぞ。
いくら我張りても我では通らんぞ。
我折りて素直になりて下されよ、これでよいということないぞ。
いくらつとめてもつとめても、これでもうよいということはないのざぞ。
神の一厘の仕組わかりたら、世界一列一平になるぞ。
桝かけ引いて、世界の臣民人民、勇みに勇むぞ。
勇むとこの方嬉しきぞ。


【雨の巻 9帖】
何事も順正しくやりて下されよ、⦿は順であるぞ、順乱れたところに⦿(かみ)のはたらき現われんぞ。
何もせいで善きことばかり待ちていると物事後戻りになるぞ、⦿の道に後戻りないと申してあろうがな、心得なされよ、一(はじめ)の火消えているでないか、まだわからんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾のような心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りて誠のない教えのところへは人集まるなれど、誠の道伝えるところへは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、いくら人は少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に⦿が引き寄せると申してあろうがな、人間心で心配致してくれるなよ。

この道は中行く道と申して知らしてあろうがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待っていて下されよ、誠の教えばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行い出来んとこの道開けんぞ、理屈申すでないぞ、
いくら理屈立派であっても行い出来ねば悪であるぞ、この世のことは人民の心次第ぞ。


【白銀の巻 1帖】
守護神と申すのは心のそなたたちのことであるが、だんだん変わるのであるぞ。
自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなたたちが和合することぞ。
それを改心と申すのざぞ。
和合した姿を善と申すのぢゃ。
今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、それが間違いであること合点か。
一切が善いのぢゃということ合点か。
地獄ないこと合点か。
悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。
合点ぢゃナァ。                                                                                                                                                                                                                                                                                 各々の世界の人がその世界の神であるぞ。
この世ではそなたたちが神であるぞ。
あの世では、そなたたちの心を肉体としての人がいるのであるぞ。
それがカミと申しているものぞ。
あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。
あの世の上の世では神の心を肉体として神がいまるのであって限りないのであるぞ。
裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。
心の守護神は肉体ぢゃと申してあろうがな。
肉体が心を守っているのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。
何処までも下に従うのぢゃ。
順乱すと悪となる。
生まれ赤児になって聞いて下されよ。