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記憶を使う側になる

皆さんが物事を判断する時、記憶を使っています。

逆に言えば記憶を使わずに判断することなど出来ません。

人は常に記憶を通して世界を見ています。       

世間には多種多様な記憶を持った人がたくさんいますが、あなたの見ている世界はあなたの記憶を通してしか見えていません。

つまりあなたにとって世界とはあなたの記憶の中にしか存在しないと言えます。

記憶がなければ世界も存在しないんです。

日月神示で『内側が外側に現れる』と言われています。

内側が外側に現れるとは、内側が変われば外側も変わることを意味します。

記憶は変えられませんが、記憶に対する意味付けは変えることが出来ます。

記憶は客観視できる以上、我々は記憶を使う側にいます。

ここで皆さんに問います。

記憶に使われ、従うことが当たり前と思っていませんか?

記憶に使われ、振り回されることにどんな意味があるでしょうか?

記憶を使う側にいるものは心が勝手に動くことはありません。

故に心が乱れることがないんです。

心が勝手に動いているうちは、記憶に使われているということです。

自身を記憶と信じれば、記憶に使われて当然です。

なぜなら記憶の通りにしか行為できないからです。

この事実からも『内側が外側に現れる』ことがわかると思います。

内側が原因になっている以上、内側を正しく見ることが大事です。

赤子のような無邪気な気持ちで内側を見続けて下さい。

日月神示にはこのように書かれています。


【扶桑之巻 13帖】
木でも草でも皆、中から大きくなるのざと申してあろう、付け焼刃や膏薬貼りで大きくなるのではないぞ、三千年に一度という、またとない結構な時がめぐりて来ているのであるぞ、為せば為るぞ、難しいこと申しているのではない、自分の中の自分を掃除して自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、磨けば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞ、キリストぞと申してあろう、内にあるものを磨けば外から響くもの、磨かれた穢れのないものとなるのぢゃ、中の自分を掃除しないで居るといつまでたっても、岩戸が開けていても岩戸は開けん。


【月光の巻 50帖】
何も難しいこと申すのではない。
自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。
内にあるものを浄化すれば、外から近づくものが変わって来る道理。
内の自分を洗濯せずにいて、汚いものが近づくとか、世の中が暗いとか不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。
木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。
三千年に一度の時がめぐり来ているのであるぞ。為せば成る時が来ているのぢゃ。
為さねば後悔ぞ。
時過ぎて種まいても、くたびれもうけ。
そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申しているが、すべては大神の肚の中にいて、一応大神が許しなされて居ればこそ存在し、生命しているのであるぞ。
悪く映るのは心の鏡が曇っているからぞ。
悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。


【月光の巻 53帖】
そなたは自分は悪くないが周囲がよくないのだ、自分は正しい信仰をしているのだから、家族も知友も反対する理由はない、自分は正しいが他が正しくないのだから、正しくない方が正しい方へ従って来るべきだと申しているが、内にあるから外から近寄るのだと申してあろうが。
そなたは無抵抗主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬を差し出して御座るなれど、それは真の無抵抗ではないぞ。
よく聞きなされ、打たれるようなものをそなたが持っているからこそ打たれる結果となるのぢゃ。
マコト磨けたら、マコトに相手を愛していたならば、打たれるような雰囲気は生まれないのであるぞ。
頬を打たれて下さるなよ。
生まれ赤児見よと知らしてあろうが。