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分別できるものの元は一つ

分別できるものの元は一つだと言われます。
完全に分離した別のものとするには影響を与え合わないものでなくてはなりません。
故に影響を与え合っているものの元は一つです。

人間の身体にはいくつもの器官があります。
それぞれが別々の働きをしていますが、生命を維持するという一つの使命を果たしています。
一つの器官だけでも正常に働かなければ、その使命を果たすことが出来ません。
このことからも別々に見えるものは分離したものではなく、一つのものとしてあるのがわかると思います。

善悪についても同じです。
相反する全く別物のように見えますが、悪がないと善が何なのか知ることが出来ません。
悪があるから善が認識でき、善に向かえるわけです。
悪も善を知らすという使命がある以上、必要でありまた善とは無関係なものでありません。

物事を分離的に見ることで取り違いが起こり、それを正しい、絶対だと思い込むから慢心になります。
自他を分離的に見るなど典型的な例かと思います。
自分という立場を持つから我善しの生き方になり、それが当たり前となるから傲慢にしかならないわけです。

日月神示では『まつり』という言葉が何度も出てきます。
分離的な考えは対立にしかならず、それをやめていくことが和合する、まつりであると私は感じています。

対立の中に調和、平穏はありません。
ですが対立も調和に向かうための御役なので、対立も必要の悪としてあるわけです。
故にあるもの一切は必要だからあるのであり、必要なものだから一つと言えます。
日月神示にはこのように書かれています。

【富士の巻 22帖】
まつりまつりと、くどう申して知らしてあるが、まつり合わしさえすれば、何もかも、嬉し嬉しと栄える仕組ぞ、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理わかりたか、まつりと申して⦿(かみ)ばかり拝んでいるようでは何もわからんぞ。
そんな我れ善しでは⦿の臣民とは申せんぞ、早うまつりてくれと申すこと、よく聞き分けてくれよ。
我が我がと思うているのはまつりていぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よくわかろうがな、
この御道は鼻高と取り違いが一番邪魔になるのぞ、と申すのは、慢心と取りちがいはまつりの邪魔になるからぞ。
ここまで分けて申さばよくわかるであろう、何事もまつりが第一ぞ。

【日の出の巻 5帖】
右に行かんとする者と、左に行かんとする者と結ぶのが[うづ]の神様ぞ、[うづ]の神様とは素盞鳴(スサナル)の大神様ざぞ、この御用によりて生命あれるのぞ、力生まれるのぞ、[うづ]がまつりであるぞ、⦿国の祀り[うづ]であるぞ、⦿はその全き姿ぞ、神の姿ぞ、男の魂は女、女の魂は男と申して知らしてあろうがな。