身魂磨きとは
私達はもともと赤子でした。
赤子には自他の区別はなく、個人という意識もありません。
だからエゴがなく、怒りも、憎しみも、裁きも現れようがありません。
そう誰もが皆、純粋無垢な神心を持っていたんです。
持っていたと言うより、最初からそうであったと言った方が正しいかもしれません。
では本来、神心であるのになぜ現在はそうなれないのでしょうか?
エゴという汚れが覆い隠しているからです。
人は体験により、自と他を分離的に見ることを繰り返してきました。
自分と他者は独立した別々のものだ、ということが世界の常識となっています。
それに対して全世界の人は疑うことすらしません。
自と他が分離している以上、個人があり、エゴが現れます。
エゴは己のためにしか行為しないから様々な不調和を生み出します。
苦しみと無縁でいたいのならエゴという汚れを洗い清めることが必要不可欠です。
これを日月神示では身魂磨きと言われます。
また身魂を磨くために具体的に何をすれば良いかも日月神示に書かれています。
日月神示では洗濯、掃除という言葉が頻繁に現れます。
それだけ身魂の洗濯、掃除が重要なんです。
ではどうすれば洗濯、掃除が出来るのでしょうか?
嫌うことをやめることです。
甘受と処理を行うことです。
智慧により個人はいないと理解することです。
個人の立場から全体の立場へと意識を拡げていくことです。
常に己の内側に気づき、それとともに在ることです。
などなど方法はたくさんあるように見えますが、意味においては同じです。
だからどの方法を行っても同じ結果になります。
様々な宗教や教えがあるのも方法の違いに過ぎません。
ただ意味がわからないうちは一つの方法に絞ることです。
意味がわからないうちに併用してしまうと迷いが生まれ、動きがとれなくなるからです。
意味がわかりたいなら立体的に物事を見ることです。
立体的に物事を見ると全てのものの繋がりがわかってきます。
なぜなら立体的に見ると矛盾しているものは矛盾していないとわかるからです。
以下は日月神示の一文です。
日月神示
【磐戸の巻 16帖】
洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、知恵や学に頼らずに、⦿(かみ)の申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶごころ)になりて、⦿の教え守ることぞ。
身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、⦿の申すとおり背かんようにすることぞ。
学や智を力と頼むうちは身魂磨けんのぞ。
学越えた学、智越えた智は、⦿の学、⦿の智ざということわからんか。
今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。
天災や戦ばかりでは中々埒あかんぞ、根本の改めざぞ。
小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。
叱るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けのよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、⦿が網かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた始めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。
身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。