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善と悪は同じものの向きの違いに過ぎない

人間の世界には善悪があります。
善的な思いで、善的な行為を行います。
悪的な思いで、悪的な行為を行います。

一般的に善と悪は別々に分離されたものだと思われています。
しかし、人間は悪を思いながら善を行うことが出来ます。

この事からも善と悪は分離されたもの、別々のものでないことがわかると思います。
『善と悪は一つのももの見る向きの違いに過ぎない』と師匠から教えられたことがあります。

人はこれが善である、あれが善だと言いますが、善であるとわかるのはなぜでしょうか?
悪があるからです。

人は悪がないと善が何なのかわかりません。
悪があるから善を知り、善に向かうことが出来るんです。

故に悪とは必要悪として存在するのであって、悪を行って良いというわけではありません。

善と悪は一つのものだから悪を嫌い、裁くことは善を嫌い、裁くことになります。

善悪も神が生み出したものですから結果として神を、一切を嫌い、裁くことになります。

仏教で憎むこと、嫌うこと、裁くことを三悪として戒めたのはこのためです。
日月神示でも悪裁くことが悪であると言われ、悪を抱き参らせることが大事だと何度も説かれています。

人として生きている以上、悪的なものは誰もが持っています。
それを抱き参らせていくことが歓喜への道であります。
日月神示では以下のように言われています。

【空の巻 8帖】
悪も元をただせば善であるぞ、(その働きの御用が悪であるぞ、)ご苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地濁りて来るぞ。

【青葉の巻 11帖】
世界一目に見えるとは、世界一度に見える心に鏡磨いて掃除せよということぢゃ、掃除結構ぞ。
善と悪と取り違い申してあろうがな、悪も善もないと申してあろうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり、気ゆるんだらすぐ後戻りとなるぞ、坂に車のたとえぞと申してあろうがな、苦しむ時は苦しめよ、苦の花咲くぞ。

【海の巻 7帖】
今度はまず心の立て直しぢゃ、どうしたら立て直るかということ、この神示読んで覚りて下されよ、今度は悪を無(のう)にするのぢゃ、無にするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、滅ぼすことでないぞ、ここのところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめておりて下されよ。
この世は一つの⦿(かみ)で治めんことには治まらんぞ、・でくくるのぢゃぞ、人民の力では治まらんのぢゃぞ、一つの教えとなって、それぞれに枝葉が出て来るのぢゃ、今では枝から根が出て大切な幹がなくなっているのぢゃぞ、中つ代からの⦿では何も出来んと申してあろうがな、⦿と人と一つになって、一つの王となるのぢゃ、上下揃うて一つになるのぢゃ、善も悪もあなないて、一つの新しき善となるのぢゃ、王となるのぢゃぞ、

【龍音之巻 17帖】
悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちに決めつけてはならん、やんわりともちかけて善(よ)きに導かねばならんぞ。
悪を嫌う心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。
邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ、この呼吸大切。

【月光の巻 27帖】
祓いは結構であるが、厄祓いのみでは結構とはならんぞ。
それはちょうど、悪を無くすれば善のみの地上天国が来ると思って、悪を無くすることに努力した結果が、今日の大混乱を来(きた)したのと同じであるぞ。
よく考えて下されよ。
善と申すも悪と言うも、皆悉く大神の肚の中であるぞ。
大神が許し給えばこそ存在しているのであるぞ。
この道理をよく会得せよ。
祓うと申すのは無くすることではないぞ。
調和することぞ。
和して弥栄することぞ。

【秋の巻 1帖】
神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないそと教えているが、それは段階の低い教えであるぞ。
大道ではないぞ。
理窟のつくり出した神であるぞ。
大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。
今までの教えは今までの教え。

【冬の巻 1帖】
神は愛と現われ、真と現われるのであるが、その根はよろこびであるぞ。
神の子は皆よろこびぢゃ。
よろこびは弥栄ぞ。
ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。
間違えてならんぞ。
正流の歓喜は愛の善となって現われて、また真の信と現われるぞ。
外流のよろこびは愛の悪となって現われるぞ。
いずれも大神の現われであること忘れるなよ。
悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。
神は弥栄ぞ。
これでよいと申すことないのであるぞ。

【光の巻 6帖】
悪い者殺してしもうて善い者ばかりにすれば、善き世が来るとでも思うているのか、肉体いくら殺しても霊までは、人民の力ではどうにもならんであろうがな。
元の霊まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊に改心させず、肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それくらいわかっておろうが、わかりていながら、ほかに道ないと、仕方ないと手つけずにいるが、悪に魅入られているのぢゃぞ。

【海の巻 4帖】
悪は無いのであるが、無い悪を人民の心から生むのざぞ、悪の虜となって苦しむが見えているから、苦も結構なれど、いらん苦はいらんぞ、神示よく読んで苦を楽とせよ、楽は喜びぞ、苦の動くが楽ぞ、楽は喜びぞ、光ぞ、⦿人(かみひと)まつりぞ、楽で岩戸が開けるぞ、苦しんで開く岩戸はマコトの岩戸でないぞ。

【海の巻 5帖】
今日までの御教えは、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来るという、これが悪の御教えぞ、この御教えに人民は、すっかりだまされ悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ、三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願いしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪はますます増えるのみ、悪殺すてふ(ちょう)そのことが、悪そのものと知らざるや、⦿(かみ)の心は弥栄ぞ、本来悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八股大蛇(やまたおろち)も金毛も、邪鬼も皆それ生ける⦿、⦿の光の生みしもの、悪抱きませ善も抱き、あななう所に御力の、輝く時ぞ来たるなり、善いさかえば悪なるぞ、善悪不二と言いながら、悪と善とを区別して、導く教えぞ悪なるぞ、ただ御光のその中に、喜び迎え善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪は無し、世界一家の大業は、地の上ばかりでなどかなる、三千世界大和して、ただ御光に生きよかし、生まれ赤児となりなりて、光の⦿の説き給う、(マコトの道を進めかし、)マコトの道に弥栄ませ。