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悪とは何か

悪とは何かと聞かれたら皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
法に反すること、規則を守らないこと、常識がないこと、人に迷惑をかけることなど様々なものが思い浮かぶでしょう。
さらに踏み込んで言えば、自分が嫌うもの一切を悪としているのではないでしょうか?

私は数年前まで極端な我善しの生き方をしか出来ませんでした。
自分の思い通りにならないもの一切を嫌っていたから心は常に騒がしく、人間関係も全く上手くいきませんでした。
また我善しにしか考えられない自分が嫌で嫌でたまりませんでした。

しかし、師匠の元で学び続けることでそれが異常なことではなく、必然的になるべくしてなることであったと感じるようになりました。

私という個の立場に立って物事を見ているのが人間だと言われます。
私という立場にある以上、私を大事にするのは当然です。
他を蔑ろにしたくてするのではありません。
私を大事にしなければならないから他を蔑ろにしてしまうんです。
これを絶対的な悪とし、裁くならば人の存在そのものが罪となります。
ですが、あるもの一切は神が必要とするからあるわけです。
悪と見えるものも浄化すれば、弥栄し、善に向かう故、悪ではないんです。
狭い視野で見るから一方的、平面的にしか見えず、正しく物事を見ることが出来ないんです。
それこそが悪ではないでしょうか?
お釈迦様の教えで正見の大切さが説かれています。
日月神示では『悪裁くことが悪』『悪を抱き参らせよ』と言われます。
本来、悪はなく、ないものを勝手につくり出すから不自然なことが生じることになります。
故に私の師匠は『素直になりなさい』と言っていたわけです。
日月神示には以下のように書かれています。

【地震の巻 7帖】
地上には、地上の順序があり、法則がある。
霊界には、霊界の順序があり、法則がある。
霊界が、原因の世界であるからといって、その秩序、法則を、そのまま地上にうつし得ず、結果し得ないのである。
また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。
しかし、これらのすべては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。
その秩序、法則、統一は、一応完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。
故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈搏し、歓喜するのである。
これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見る時は、悪を許し、善の生長弥栄を殺すがごとくに感ずる場合もある。
しかし、これこそ善を生かして、されに活力を与え、悪を浄化して必用の悪とし、必然悪として生かすのである。
生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。
本来悪はなく暗はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。
これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに通ずる歓喜である。
一の天界に住む天人が、二の天界に上昇して時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。
さらに一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。
地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。
悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ないごとく、地上人に至りては極めて稀であることを知らなくてはならない。
悪を悪なりと定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは原因の世界より伝えられたる一つの因果であるという平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べたところで明白となり、己を愛するは、まず悪の第一歩なりと考える。
その考えが悪的であることを知らねばならぬ。
来るべき新天地には、悪を殺さんとして悪を悪として憎む思念はなくなる。
しかし、それが最高の理想郷ではない。
さらに弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。

【月光の巻 30帖】
心の入れ替えせよとは、新しき神界との霊線をつなぐことぞ。
そなたは我が強いから、我の強い霊線との交流がだんだんと強くなり、我の虫が生まれてくるぞ。
我の病になって来るぞ。
その病は自分ではわからんぞ。
訳のわからん虫わくぞ。
訳のわからん病流行るぞと申してあるがそのことぞ。
肉体の病ばかりでないぞ。
心の病はげしくなっているから気つけてくれよ。
人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。
この病治すのは、今日までの教えでは治らん。
病を殺してしもうて、病を無くしようとて病は無くならんぞ。
病を浄化しなければならん。
悪を殺すという教えや、やり方ではならんぞ。
悪を抱き参らせて下されよ。