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銀河電鉄の夜に小さな奇跡

人がまるでぎゅうぎゅうのお弁当箱のオカズのように詰め込まれている。この小さな箱の中にどれだけの人が入るのだろうか。小さく揺れ動きどこかに運ばれていく。

「次は都会のビル群。都会のビル群でございます。お降りの方は右手側のドアの手前でお待ちください」

アナウンスが流れた瞬間、何人かの人が動き始めた。くたびれた様子のサラリーマンは重そうな足取りでドアの前へと向き直す。仲の良さそうなカップルはこの後に予定でもあるのか楽しそうに微笑み合う。スマホと睨めっこしていた女性はポケットにそれをしまう。窓の外はだいぶ暗くなっていた。夜の闇というには都会のビルの灯りが眩いが。

電車がブレーキをかけると身体が左右に揺れる。進行方向に持ってかれたと思ったら反対側に弾かれる。学生の頃理科の物理の授業で習ったこの力の法則はなんと言っただろうか。瞬間、肩と肩がぶつかる。正確には肩と腕だろうが表現としては肩と肩の方が情緒的だろう。情緒を意識するほどにこの感触に胸がドキリと高まった。

「すみません」

「いえ」

会話はそれで終わってしまった。その人は数時間前に初めて会った。今の時代、人と繋がるのに直接会う必要などないのだろう。そのためのSNSなど溢れるほどある。それでもこうして直接会って言葉を交わすことは一つの奇跡ではないだろうか。

それなりに色々と経験してきた。人生80年と言われているこの時代。その4分の1以上の時間を消費してきた。決して短いとは言えない時間の流れだと思う。それでもたかが「肩が触れた」程度でこれほど胸の高まりを感じるのはそれほどまでに久しいシチュエーションだったからなのだろうか。それこそなんたらの法則を習ったあの学生時代のような「ウブな自分」がこの小さな奇跡の前にひょっこりと顔を出してくる。

今、この隣に座り肩を触れ合わせるかどうかの距離にいる人とどのような経緯で一緒にいるかは省略させていただこう。「ウブな自分」のほかに自分の中にいるそれなりに経験してきた「大人な自分」がプライバシーというブレーキを目一杯かけている。

またいくつかのアナウンスが流れ過ぎてさっていった。一つ、また一つと駅のホームが右から左へと流れていく。ビル群を抜け窓の外に暗闇が広がっている。少し遠くに住宅街の灯りが見える。灯りが遠いせいか建物の形は見えない。その風景はまるで夜の闇に浮かぶ星のように闇の中にポツポツと点在している。

「次は最寄駅。最寄駅でございます。お降りの方は右手側のドアの手前でお待ちください」

お別れの時が来た。隣のその人は降りる支度を始めた。支度といっても特にすることはない。心構えの話である。

「あの、今日は楽しかったです。ありがとうございました」

定型文のような言葉がその人の口から漏れ出た。この言葉からどんな真意を読み取れるだろうか。定型文のような言葉が出てくる時点で読み取れるような感情などたかが知れている

「いえ、こちらこそ楽しかったです。ありがとうございました」

こちらも定型文のような返事で答える。それ以外答えようがなかった。

いよいよその人は席を立ち上がった。ドアが開き箱の外へと歩き出す。ここで手を取り「もう少しだけ」と言えたらどれだけ良いだろうか。ここで自分も立ち上がり「もう少しだけ」と一緒に外へと行けたらどれだけ良いだろうか。こんな時だけ「ウブな自分」と「大人な自分」が意気投合する。

「そんなこと恥ずかしくてできないよ」「さっきのやりとりを思い出せ。わかるだろ、大人なんだから」

我ながら不甲斐ない。また箱は夜の闇を走り出した。住宅街の星灯りが窓の外に流れる。果てしない銀河の一つの星に起きた小さな奇跡は地上の夜闇に飲まれ消える。スペースの空いた右隣に吹く隙間風がさっきまで確かにあった温もりを連れ去っていく。少しだけ肩口に残ったあの人の香りが寂しさを連れてくる

[次はどこに行きましょうか。また会いたいです]

呆然と眺めていたスマホの画面にあの人からのメッセージが届いた。ああ、この奇跡はまだ続くらしい

[どこに行きたいですか?あなたに会えるならどこでも構いません]

あとはどうとでもなれ、と送ったメッセージの返答はいつ来るのだろうか。胸が高まったまま夜闇を駆ける箱に揺られ1人帰路を行く。

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