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リフレイン

毎晩、岩塩と精油、彼らとの甘い時間は、私にとってなくてはならないぼんやりできる時間だ。
白い湯気が立ち込める中、目に見えない彼らを心と嗅覚で感じる。
見えないから無くは無く、私の嗅覚は彼らをしっかり認知することができる。浴槽の中では、五感が1日かけキャッチした情報が全てクリーニングされ、洗い立ての五感に戻る。

そのバスタイムで、毎日毎日必ずすることがある。
それは、耳に意識を集中させることだ。

何か音がするのではないが、耳に届く音があるのだ。
私が、その名を「静寂の音」と命名したのは10年ほど前に遡る。



当時息子が小学生高学年。中学受験のために塾に通い出した頃、当時住んでいたマンションで1人になる夜が1週間の内何度かあった。今でも昨日のことのように覚えているが、あの時彼が腕の中から離れていくという漠然とした危機を感じ、巨大な寂しさが私を包み込んだ。誰もいないはずの真っ暗なその空間で初めて、その音に出会った。

溢れる涙を止めることなく、その空間でうずくまっていると、確かに何かが聞こえる。暫くその音に意識を集中させていると、私は徐々に落ち着きを取り戻したのだ。

その時から、周りの人間にその音のことを話し続けてきたが、そんな事誰も信じてはくれない。「何、変な事言ってるの。」と笑われて終わった。聞こえないから無くは無く、確かに私の聴覚はその音を認知していた。

この話をしたら、少しは信憑性が増すだろうか?
私は、聴覚検査で毎回左耳の異常を指摘されてきた。異常と言っても、聞こえないわけではなく、聞こえすぎる方なのだ。
聴覚検査が行われるあの防音室でヘッドホンから流される微細な音といえば分かりやすいだろうか?私の左耳はあの音を所有してしまうのだ。


意識を耳に集中すると、静寂の音が、頭の中でリフレインして離れない。
今では日常生活で、意識的に音を感じる選択をしている。

香りと静寂の音は、嗅覚と聴覚を癒し、岩塩は触覚を癒す。
この数年、こうやって毎日同じことを繰り返してきた。
このバスタイムは、「新しい私に出逢う」ための習慣となっていた。



人間の存在と同じことが言えると思うが、無い場所にこそ真実が在ると感じる。
香りも静寂の音も、目には見えない、耳には届かない、けれど、確かにそこに在ることを私は知っている。

という事は、私の存在自体も、無いところに在る、そう言えるだろう。
無くは無いその姿は、毎日よく見かける、鏡に写る自分の姿かもしれない。それを無いと感じるのか、在ると認識するのか、それは人それぞれなんだろう。


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