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わたしから消えていく

先日、年に一度の誕生日を迎えた。
8月16日夏真っ盛りの暑い日に私は産まれた。予定日は8月15日の終戦記念日、家族全員が翌日の誕生を祈ったようで、私はその祈り通りの8月16日の朝、この世に産まれ落ちた。
あれから47年。長い月日が経過した。


最近はSNSを通じ、より多くの人から【おめでとう】の言葉を頂く。
今年も多くの人が、その言葉を伝えてくれた。
毎年疑問に感じていたことだったが、今年は少し真剣に考えてみた。


『なぜ、おめでとう、と人は言うのだろう?』


色々な角度から覗いてみるも正解はなく、自分がいいね!を付けたものを紹介していこう。

■人は生まれたからこそ生きることができる。『自分という存在』をまた一年更新していくことへのお祝いの言葉?

■産まれたからこそ大切な人たちに出逢えた。億を超える無数の人の中で共に時間を過ごせることへの驚嘆の言葉?

■生きることが修行であるならば、誕生日を迎えることは死へ一歩近づいたともいえる。修行の年月が減ったことへのお祝いの言葉?

色々思い巡らすも私が一番しっくりきた意味はこれだ。

『自分という存在』から消えていくものへの労いの言葉ではないだろうか?
長い間共に存在したものへの感謝と労いの意味を込め、『卒業おめでとう!』みたいな感覚だ。


消えるということは決して、失うということではない。
消えていくものとは、強い思い入れ、好き嫌い、執着、エゴ、様々な感情や判断、ジャッジ、嫌な記憶、自分の中に眠るそれらを消去していき、『これがわたし』という真っ白なものに出逢っていくことだ。

私はわたしであって、わたしではない。
私はわたしであって、毎年の誕生日、わたしから消えていくものがある。


産まれたとき私たちはゼロだった。
そのゼロから沢山のものを足したり、かけたり、それらは自分という存在に記憶や経験として積み重ねられてきた。
この数年の私は、迷いながらも辞める勇気と共に、引き算や割り算をし、へばりついていたものを消してきた。絡み合っていた糸を紐解いてきた。

今私に残るものは、『本来の自分』だ。ありのままの自分とでも言おうか。


お誕生日に、なぜ『おめでとう』と人は言うのか?
今年もまた一つ自分という存在から消去されたものがあり、また一歩ゼロに近づくことができたからだ。


誕生日を迎えることは、『夜が明くる事なく自ず(ここ)から』毎年毎年、生をスタートすることだと想う。
失うのではなく、消去をしゼロに近づいていく。


新しい一年、
精神を拡大、深め、豊かにしていきたい。精神世界の自由を謳歌できることが年齢を重ねることの一番のギフトだろう。


お母さん、産んでくれてありがとう。

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