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ゴールテープの手前で


 9月のとある日曜日、抜けるような空の下、さんさんと降り注ぐ太陽を浴び、小学生たちは気持ちよさそうに走って舞って大活躍していた。娘の小学校では、午前中だけの運動会が開かれた。

 私は、見終わった後からずっとモヤモヤしていた。運動会を反芻して何度も何度も思い出して考えて、娘に言おうか言うまいか迷っていた。腹の奥がくすぶっていた。そのまま寝てしまえば良いのに、寝る前のお布団の中でついに私は言ってしまった。

 「なんで最後の5m、歩いちゃったのさ」

 小四のハトちゃんは、足が遅い。でも背は高い方だ。80m走の出走順は最後のグループにいて、5人で走ってビリだった。彼女の目線の先のゴールテープはとっくに切られて地面に落ちていた。私はそれでも、遅いながらも、ハトちゃんにゴールを全力で駆け抜けて欲しかったのだ。

「お前の!全力は!どこへ消えたんだ!」

私の中の松岡修造が吼える。


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 ハトちゃんは、ゴクリと唾を飲み込むとおそるおそる説明してくれた。

「今日、とっても暑かったでしょう。ハトちゃんは暑くて暑くてもう元気がなくなっちゃったの。
ハトちゃんの今日の出番は三つあって、
応援合戦と
80m走と
ダンスだけど、
応援合戦に出たら、もうヘトヘトだったの。おひさまの下で運動場に座っているだけで疲れるの」

「ハトちゃん、お母さんが見てくれてるの分かってたから、走ろうと思ってたよ。でも80m走の最後の最後で「無理!」って頭の中が光って、もう歩いてた。そして、ダンスのために力を残しておくことにしたの」

 話しているそばから、ハトちゃんは涙がいっぱい出てきて、最後のほうはつっかえつっかえ嗚咽しながら言葉を絞り出していた。

「ハトちゃん、いつもぜんぶの力で頑張るのは出来ないみたいよ」


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 私は言葉を失った。
 ああ、ハトちゃんはもう「自分にはできないことがある」って知ってる子なんだなあ。ゴールテープがはってあれば、そこに向かって無心で走っていってた幼いハトちゃんはもういないんだ。運動会を乗り切るため、冷静にパワー配分を考えたんだね。
 そう思い至ると、私はタオルケットにくるまって静かに涙を流しているハトちゃんのほっぺたをつるりと撫でた。

 ハトちゃんは、これまで、ちゃんとプリンセスだったしヒーローだった。
 世界にあまた存在する主人公達のように、世界を救うのは自分だと信じて疑わなかった。
走りだす瞬間、
剣をかまえた瞬間、
弓を引き絞るその一瞬、
物語のあの人を助けられると信じていた。世界と身体が一致した万能感。
「私はできる」
そう思っていたはずだ。

 でも、いつの間にか気づいてしまったのだ。
「頑張ってもできないことがある」
「うまくいかないことがある」
そう気づいてしまったハトちゃんが横で泣いている。


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 運動会の出番をハトちゃんは3つと言ったけど、そうではない。彼女にとって、運動会すべてがとおしで出番みたいなものだと思う。運動会は非日常である。たくさんの観衆の目。先生、級友のいつもと違う張り切り。その中に身を置くだけでハトちゃんにはエネルギーがいる。(ハトちゃんには発達障害の特性があって、繰り返し反復されるルーティンを好む人です)それに加えて、9月のまだまだ暑い気温。参加できているだけでもすごいことなのだ。

 小学一年生の時、初めての運動会でハトちゃんは午後の部に出られなかった。午後一つ目の出番、大玉転がしの待機場所で座ったまま爆睡してしまったのだ。本人は出る気満々だったけれど電池切れした。
 パワーオフ。
 保健室の先生が抱っこして保護者の応援席にハトちゃんを連れてきてくださった。テントの下でこんこんと眠るハトちゃん。私はクラスメイトが活躍するのを眩しく見ていた。
 目を覚ました時の本人の落胆ぶりは物凄くて、閉会式の間中、野球のバックネットの裏に引きこもってずうっと泣いていた。クラスの記念撮影にも写らないと言って、打ちひしがれていた。

 悔しかったんだろう。


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 あの時の小さな体と比べるとずいぶんでっかくなったハトちゃんの体に手を置きながら、やっと私は心から言うことができた。
「ハトちゃん、頑張ったね」
言えたけど何故か私も泣いていた。お布団の中で泣きながら考えた。80m走の最後まで全力でなかったことにモヤモヤして、ついつい喝を入れてしまった。どんな風に語りかけるのが正解だったのだろうか?分からない。

 ハトちゃんの手を触ってみると、手のひらは思いのほか熱くて、私の手をぎゅっと握り返してきた。

 ハトちゃんは、自分が自分であることを知っている。他人にはなれないことも。ハトちゃんはまだ幼いけれど幼いなりに、自分のことを分析して懸命にやっていこうとしているのが、熱い手のひらから伝わってきた。

 「私は私を生きていく」

 ヒーローからただの私になることを人は成長というのかもしれない。母はそう思った。


 私の中の修造!
 ハトちゃんの全力は消えてはいない。
 世界は救えないけど、命を燃やして・・・・・・運動会を乗り切ったんだからね。4年生のダンスは振り付けが難しくて家でもずっと練習していたくらいだけど、生き生きと踊り切ったんだから。運動会後のクラスの記念撮影にもしっかり写っていたよ。
 ハトちゃんは彼女のやり方でハトちゃんの世界を統べるんだ。

 「四年生のダンス、めっちゃ格好良く踊れてたよ」

 私はそう言うと、タオルケットごとハトちゃんをギューと抱きしめて、そのまま眠りについた。





このツイートの中身を忘れないうちにnote にしました。喧嘩というより、私の一人相撲ぽいです。一人でモヤモヤして、吐き出して、泣かせて、泣いて、眠った…。
ハトちゃん、ごめん!



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ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。