これは最近、私の頭の中で繰り返し再生しているアラートです。ついついエッセイを書いている時の気持ちで描写をしそうになる時、鳴り響くのです。
この秋、私は脚本について学び始めました。
きっかけは、父の施設入所でした。
面会した時に、シャイな父とはなかなか話がはずまないのです。会えない間に伝えたいことを心でずいぶんたくさん用意していたはずなのに。父が家にいた時には存在しなかった透明な薄い膜が私と父の間に張られています。物理的にも心理的にも。
エッセイを手紙にして手渡そうかなあと、頭であれこれ考えながら、父の部屋を整理していたら、古い脚本が出てきました。
これだ!
父が若い頃に心血を注ぎ何度も読んだ脚本。その形なら、興味を持ってもらえるし、ダイレクトに伝わるかもしれません。父が現役を退いてから遠ざかっていた映像の世界も蘇ってくるような気がします。カメラワーク、カットわりを考え始めてくれればしめたものです。
かくして私は、週一でリモートによる習い事を始めました。
ふたりの人間がバス停にいるとします。
その関係性は、見えません。
小説なら、この書き方で親子の関係性が分かります。
一方、映像では、分かりません。
女子高生とおじさんが立っているにすぎないのです。
動きを出すことで、人物にセリフを言わせることで、小物をクローズアップすることで、観客に分からせるそうです。難しいなあ。
手に持ったお弁当の手提げがお揃いだったら、そこから親子って伝わるかもしれません。
面白いなあ。
どうやって観客に伝えていくのか。
どう見せるのか。
脚本の世界の入り口に立っている私はワクワクが止まりません。
父との面会の際に、ずっと伝えたいことがありました。それは、ごめんねという気持ちです。慣れ親しんだ家を出されるって、どんなに辛かったでしょう。もしかしたら悔しかったかもしれません。ずっとずっと我が家にいたかったと思うのです。お父さんの気持ち、分かってたよ。
それを、ドラマとして脚本に書こうと思いました。良かったらご覧ください。