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はちみつ爺さんとハトちゃんの冒険

 厚く切ったきつね色のトーストに金色のはちみつを塗る。
 それが父の毎朝の楽しみだ。
 以前と比べると色んなことが出来なくなってきた父。だけど、大好物のはちみつをたっぷりスプーンに取ってゆっくりと心ゆくまでパンに広げている様子は平和そのものだ。パンの横には湯気が上がるブラックコーヒー。孫が聞く。
「ねぇ、おジイ。このはちみつってプーさんが食べてるやつと同じかなあ」

「プーさんってどなたかな?」

 孫のハトちゃん(仮名)10歳はおジイが大好き。彼らは愉快な仲間である。娘であり母である私から、ガミガミ言われてお風呂に入ったり、洋服をたたんだり、歯磨きをしたりしている。ちょうど出来ることのレベルが同じくらいで、私からの攻撃をタッグを組んでかわしてきた戦友だった。

 ついこないだまでは。

 おジイは失敗をよくするようになった。ハトちゃんよりもお着替えが下手くそになったし、どれを着たらいいか組み合わせもおかしい。入れ歯をしまった場所が分からなくて、押し入れを開けたり閉めたり。そんなとこにあるはずもないのに。失敗をするたびに私が「あー!もう!」と騒いで落ち込んでしまうので、ハトちゃんはおジイのことが心配になっている。ハトちゃんはおジイがうまく生活できるようにどうにかしてあげたいと思っている。

 ある日、私は新しく買った本をリビングのテーブルに置いて家事をしていた。学校から帰ってきたハトちゃんは、その本に釘付けになった。

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 楽しそうな表紙に目を奪われたらしい。
「ねえねえ、これ何の本?」
と聞いてきた。ハトちゃんは、文字を読むのが苦手な10歳。ハトちゃんには発達障害があって識字能力が極端に低いのだけど、この本に惹きつけられている。そこで、私はハトちゃんとこの本を読むことにした。本のタイトルは『認知症世界の歩き方』。


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 本を開くと、まず目に飛び込んできたのは地図。海に浮かぶ島には、バス停や高い山々や美味しそうなレストランなどが親しみやすいイラストで描き込まれている。ハトちゃんは、キラキラした目でずっと眺めていた。そして、大好きなおジイの世界を知りたくて、私にも質問してきた。
「この絵はどういう意味なのかな?」
ハトちゃんの指先には、亀が大きな砂時計を前に途方にくれたようすで砂浜にいた。私は文章を読んで説明する。

「トキシラズ宮殿」
この世界には、正しい時の流れの感覚を完全に失ってしまう、世にも奇妙な現代版竜宮城があるのです。
-STORY9  p125より

「飛行機に乗って海外に行ったら、時差ボケってあるじゃん。自分の中ではもう夜なんだけど、その国ではまだまだ昼で、寝る時間にならない、ってやつだよ。“私の時計“と“実際の時間“がずれていくんだって」
「ちょっとお昼寝したつもりで、気がついたらもう夜になってた。ってことがあるんだって。時間の進む速さが人と違ったりするみたい」
「へえー。おジイはそんな風に感じてるんだあ」
共感はハトちゃんの方が深い。自分にも思い当たることがあるらしい。

 おジイの今。未来の自分。
 それを私も知りたくて、この本を買った。
 認知症の方にインタビューし、たくさんの体験談をもとに事例がピックアップされている。立ち位置が本人目線なのだ。主観が認知症の本人にあって、困り感が実感として伝わってくる。ハトちゃんも、自分のことみたいに感じていたようだった。

 そして、困り感を説明するのに、デザインの力をフルで活用されているため、情報の伝わり方が太い。次のページはなんだろう、と開くたびにワクワクする。本全体のムードが暗くないことは大切だと思ったともすれば認知症のイメージは、大変なこと、立ち向かうべき困難性、となってしまいがちだけれど、あくまでもその世界での体験を旅のスケッチとして、旅行記として、明るく楽しく描いている。

 だからこそ、この本は届くべき人に届きやすい。

 ハトちゃんは識字に障害があって長い文章を読むことがとても苦手な人だ。ハトちゃんは、イラストがいっぱいのこの本を開き、目で情報を得て、理解しようという意欲が湧いていた。ということは、認知機能が低下してきた当事者が自分のことを知るのにも適しているのではないかと思う。おジイは新聞が読めなくなって久しいけど、この本は眺めていた。
 もっともっと家族のことを知りたいと思っている人に、そして、自分のことを知りたいと思っている当事者に、この本はうってつけだ。


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 認知症のおジイの周りでは小さな事件が沢山起きる。小さな失敗がどんどん起きる。それを、私はずっと私の困難だと思ってきた。
後始末をすべきことがらだと。
取り除くべき失敗だと。

 この本を読むと分かる。不思議な世界を生きているのはおジイだ。生きにくさを感じているのはおジイの方だった。どうやったら、楽になるのか、簡単にできるようになるのか。

 ハトちゃんが小学校に上がるときに、「スモールステップ」という言葉を知った。定型発達の子どもたちが当然に出来ることを、いくつかに分解して、ハトちゃんが出来るとっかかりの小さな一歩を作り出す。

 私はやれることがどんどん少なくなっていくおジイが切なくて、目を逸らしていたのだ。スモールステップはおジイにも必要だった。出来なくなってしまったと取り上げていくと最終的に何も出来ない人になってしまう。出来るようにやり方を考え、工夫して、声かけを続けようと思った。おジイに世界がどう見えているのかを忘れそうになった時、私はこの本を開こう。

 本を読んだ後、ハトちゃんはおジイとの関わりが積極的になった。

 朝起きると、顔を洗う場所を忘れて右往左往するおジイをさっとスマートに案内する。それが実にかっこいい。私みたいに、ガミガミと、うるさくではなく、「おジイ!おはよ。こっちこっち」って仲間同士の気安いアドバイスみたいにさりげなく誘うのだ。つい、おジイも、素直に着いて行く。

 夜ふと目が覚めた時、トイレへの道順が分からなくなるようで、私たちの寝室に迷い込んでくるおジイ。そこで夜も、トイレへ続く廊下の電灯とトイレの電灯をつけっぱなしにしておくことにした。その点灯作業をハトちゃんはやってくれる。ぱちん。

 おジイは一人ではない。
 おジイにはハトちゃんがいる。

 ハトちゃんは見事な鳩胸をしているのでそのニックネームである。認知症の家族と同居しているハトちゃんはすこぶる呑気に愉快に過ごしている。その鳩胸には希望がいっぱい詰まっている。

 はちみつ爺さんとの冒険。
 おとものハトちゃんは希望で胸をふくらませ、手には『認知症世界の歩き方』を持っている。







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なんとライツ社さんは、本をデジタル化してnoteでも公開されています!




この記事が受賞したコンテスト

ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。