群盲は象を撫でる
照明が落ちた部屋の隅で、うす青く光るディスプレイを一人で眺めている。窓の外には冷たい大気が満ち、月はなく星々だけが漆黒の空にまたたいている。
待ちに待った夜が来た。
昼間の喧騒は終わり、自分の中に渦巻く星雲を静かに見つめ、そこから言葉を紡ぐのだ。
取り込んで畳んでない洗濯物は小山になっている。
洗ってないままの食器はシンクに放置されている。
開封したい郵便物もテーブルにある。
でも、心は乱れない。
娘が寝息を立て始めたこの瞬間を逃さない。
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一体、どれだけ沢山の人々が文章を書こうとディスプレイに向かっているのだろう?
ある人は正座して。
ある人は立ったままで。
ある人は書斎で。
ある人は台所で。
ある人は通勤電車で。
ある人はBARで。
一人っきりの人もいるだろうし、他人に囲まれている人も、家族がわあわあいってるただ中に身を置いている人もいるだろう。
プロもアマもいる。
書いているシチュエーションはそれぞれ千差万別であっても、書き進めるその先には究極の美しい一点があるはずなのだ。
あの一瞬の閃きにどうにかして辿り着きたくて。
あの儚いフレーズにどうにかして近づきたくて。
誰もが等しく自分の中に深く深く潜っていく。
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娘のハトちゃんは、かわいい。
親の生物的な感情として、かわいい。
私の世界では、ハトちゃんから発される光は「かわいい」だけではなく、「焦り」と「祈り」が陰影をつけ複雑な見え方をしている。
ハトちゃんには、自閉症スペクトラムという発達面での問題があって、私の毎日は驚きと発見の連続である。
その発見を、
そして感じた光を、
つぶさに書き留めたい。
『横断歩道を渡る』
ハトちゃんと歩く。
10m先、歩行者の信号機は赤。
あ、視界の左すみで青信号が点滅し始めたから、もうすぐ前の信号も変わりそうだね。
お母さん、次の電車にどうしても乗りたいな。
少し早歩きして、青信号に変わったらすぐに渡り切ろうよ。
つないだ手に力を込めた。
ハトちゃんは、指先が白くなるくらい握り返して、歩き方を変えない。むしろ、ゆっくりゆっくり歩く。
ハトちゃんの手、あったかい。
ハトちゃん、ぎゅっと握ってくるなあ。
指先からは、体温と強い意志が流れ込んでくる。
こうやっていつも、
青信号を私は見送っている。
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自分の体内に書きたいことがある。
使ってみたい表現と手法があり、読み手の心に強く響くように書きたい。
でも、遠く及ばない。
下書きされ完成を見ない記事だけが増える。
書くことは難しい。
ディスプレイに向かっている同志達は、どう闘っているんだろう?
夥しい数の人間が言葉を掘り出して文章を紡ぐさまは、『群盲が象を撫でる』様子に似ている。
一度も象を見たことがない盲人が象に触れて象を評す。牙に触れた人は杵のような生き物だと言い、足に触れた人は臼のような生き物だと言い、尻尾に触れた人は縄のような生き物だと言った。それらの感想はすべて象の一部についての感想であって、象そのものの感想ではなかった。
これは目が見えない人を愚弄する寓話ではない。
仏教における盲人とは、実際に目が見えないことを意味するのではなく、真理に対する見識がないことをいう。
立体的な奥行きがあり巨大な重量を持った象はそこに確かにいるけれど、私たちは自分の触れた部位のみで評してしまう。私たちは、自分の持ちえる全ての能力を駆使するけど、その範囲内で感知した事柄しか語ることができない。
しかし、それで良いと思う。
だって、象はいる。
「文学」という美しいポーラースターは厳然として存在しているし、ゆるぎない「事実」は侵されることなくそこに在る。
自分なりのアプローチで象を撫で回し、感知したことを言葉を尽くして表していこう。
私も、象を撫でている。
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待ちに待った夜が来た。
照明が落ちた部屋の隅で、うす青く光るディスプレイを一人で眺めている。窓の外には冷たい大気が満ち、月はなく星々だけが漆黒の空にまたたいている。
さあ、書こう。
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自分へのアンサーnoteです。
ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。