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カップにいっぱいの

中学一年生の冬のある日、何も食べられなくなったことに気がついた。
食べ物のことを思い浮かべるだけで、ムカムカして、胃を絞りあげられるような鈍い不快感が襲ってくる。でも、まだ、平日だ。学校へいかなければならない。

早朝の布団のなかで、トーストを思い浮かべてみた。

あのような大きくて乾いた物体をどうやって飲み込んでいたのか思いだせない。歯で噛みちぎる様子も気持ちが悪い。
「うう。」
トイレに駆け込んで、吐いた。胃液だった。
妙に黄色っぽいそれを出す自分を俯瞰で見ながら、私はふと思った。
「自分が自分でないみたい。」

私は希望していない学校に通っていた。中学受験をし選抜試験に通ったものの、抽選にもれてしまった(当時はそんな受験制度があった)。だから、地元の荒れに荒れた学校へ通わざるをえなかった。怖い先輩達がいる中学校。小学校から持ち上がって一緒に進級した友達は、先輩に影響されてだんだんと乱暴に横柄に変身していく。それが悲しかった。

中一ショック。

今、振り返ると環境の変化についていけてなかったのだと思う。幼い時から親しんできた友達が、どんどん適応し新しい世界に興味を持って、より話の合うグループに吸収されていくのを、私は見ているだけだった。
自分も変身すれば良かったのに。
先生の悪口を言えるようになって、みんなが好きなアイドルが出ているバラエティー番組を見られるようになれば良かったのに。

でも、できなかった。

私は気力と体力を失って、文字通り寝込んでしまった。


☕︎☕︎☕︎


おかあさんは、どんなに心配したことだろう!

これまで、病気もなく学習も問題なく育ってきた長女が、何も食べられなくなって死んだような顔をして寝込んでしまった。初めてのことで、きっとすごく動転したと思われる。

私のおかあさんは、天然で少しとんちんかんなところがあった。
一言で言うと、「善意にあふれすぎた」人なのだ。ハイジを大人にしたような。おばあさんに柔らかいパンを食べさせたくて、アルムの山に帰るめどが立っていないのに、引き出しいっぱいに白パンを溜め込んでしまう人。

枕元にそおっと来たおかあさんは、なんと、ゆっくりゆっくり詩を朗読したのである。私を励まそうとして、一生懸命に、関わろうとしてくれたんだろう。

おかあさんの趣味は、絵本の読み聞かせだった。
サークルにも入っていて、小学校や図書館で披露していた。

読む前に気合をいれて、
「えへん」「えへん」
と咳払いする様子や、いつもよりずい分張っている声の感じが、私には恥ずかしくて、ちゃんと聞いていなかった。

山のあなた

山のあなたの空遠く
幸い住むとひとのいう
ああ、われひとと尋(と)めゆきて
涙さしぐみかえり来(き)ぬ
山のあなたになおとおく
幸い住むとひとのいう

                   上田敏訳

読んでくれたのは、カール・ブッセの書いた詩だった。私は今では、そらで言える。

私は自分のことを話すのが苦手で、おかあさんと向き合うのが心底照れ臭くて逃げたくて、布団にもぐりこんでいた。きっと、おかあさんは言いたかったのだろう。
「ここではないどこか、自分ではない自分、目の前にないなにか、ばかりを求めすぎているわよ。」
と。

でも、私は、自分がカール・ブッセ本人かと思うくらい「山のあなた」に行きたかった。ここではないどこかに、きっと私の理想の自分がいて、お友達の中にあってもキラキラと笑い話すことができると信じていた。


☕︎☕︎☕︎


人の気分は落ちるところまで落ちてゆくと、後は上がっていくしかないらしい。お腹を空かすだけ空かし、身体は横になっていても頭だけで全力疾走を続けていた私。でもついに、布団から出ることにした。

行き先は、おかあさんがいるリビング。その部屋はフローリングだけどこたつがあって、小学校高学年と低学年の妹達もめいめいに好きなことをしているはず。

私が現れると、一堂が「おっ!」という顔をしたが何も言わず、そのまま姉妹とおかあさんでおしゃべりしていた。私は、顔を見られないよう、人がいないこたつの一辺にするりと入ってドンと横になった。

「ねえねえ、ガラスの仮面の麗ってさあ、これ、どんな髪型なんやろうか。」
「金髪パーマ。」
「それはぱっと見。」
「問題は後ろ頭たい。」
「刈り上げとるっちゃないと?」
「だとしたら、横の髪を垂らしすぎやろ。」

確かに麗の耳横の髪は、胸くらいまでの長さがあってバランスがおかしい。
ならば、乙部のりえは、どうなる?
ロングヘアのはずだけど、ポニーテールの三つ編みが異常に細い。細すぎる。
〜心のつぶやき〜

みかんを小房に分けて、白いすじを極限まで取ってツルツルにしていく一番下の妹。もう一人の妹は、お酒なんか飲めないのに珍味が大好きで、あたりめを噛みながら漫画を読んでいる。

「うわー。のび太がドラえもんをおんぶしとる。これって愛ばい!愛。」
「なんで?」
「だってさ、実はドラえもんの体重、129.3kgあるったい。」
「へぇ、重かね!」
「その辺の小学生は、ちょっとやそっとじゃドラえもんをおんぶ出来んね。のび太、根性あるやん。」

ドラえもんの身長も129.3cmばい。
これは小学4年生の平均身長で、のび太と目線が合うように藤子不二雄先生が考えられた設定やけど、たぶん体重は後付けやで。
〜心のつぶやき〜


こたつテーブルの上はすごいことになっていた。
うまい棒たくさん
丸めたティッシュ
あたりめ
キャンディ状のマグロキューブ
イカフライ
みかん
みかんの皮
ガラスの仮面(コミック)
ドラえもん(コミック)
アルファベットチョコレート
それらの包み紙
以上でてんこ盛り。
その中におかあさんのマグカップが置いてあるのが分かった。部屋に入った時から、鼻の奥をくすぐるコーヒー牛乳の匂いがしていたから。

当時、レギュラーコーヒーは父だけの飲み物で誰も飲めなかった。女性陣はインスタントコーヒーを、それぞれの好みで作っていた。おかあさんの好みは、牛乳をチンしてそこに粉のコーヒーをスプーン山盛り1入れたやつ。牛乳、ほぼ100%だった。

やらねばならない家事を片付けて、おかあさんのささやかな楽しみの時間。カップいっぱいのコーヒー牛乳をゆっくりゆっくり飲むこと。
そこには、ほわんとした空気が流れていた。

私はやっと心からコーヒー牛乳を飲みたいと思った。

おかあさんは、私が飲みたいと言うと、大喜びでコーヒー牛乳を作ってくれた。
「お姉ちゃんは、コーヒースプーン2、砂糖山盛り2にお湯をカップ半分までいれて溶かして、残りのカップ半分は牛乳。だよね?」
食欲をそがないように、一生懸命、切れ目なく話しかけながら、急いで慌てて作ってくれているのが伝わってきた。

おいしかったなあ。

問題が解決したわけではなかったし、身体はとてもしんどかったけど、その手渡された一杯が復活のきっかけになったと思う。薄暗闇に沈んだ汚泥のなかに漂っていた私にとって、清浄な光が溶け込んだような力のこもった飲み物だった。
兆し。
おそらく、おかあさんは、久しぶりに我が子が口にする飲み物に「親の魔法」をかけてくれていたのだろう。

こたつの上でポンポン飛び交う言葉たちを眺めながら思った。
「この馬鹿で心底くだらない会話、楽しいやん」
「こういうの、学校でやればいいだけやん」
「やれそうやん」
失敗しても、何回でも帰ってきて、また、ここから始めたらいいんだ。

カップいっぱいのコーヒー牛乳をゴクリゴクリと飲みながら、その部屋のおバカなエッセンスも体内に取り込んでいった。もう、怖いものなんて何もないような気がしていた。


☕︎☕︎☕︎


おかあさんが死んでしまって、もう何年も経ってしまった。今でも、あの時の楽しい感じは夢に出てくる。
室内は暖かく、窓が結露していた。コーヒー牛乳やあたりめやチョコの匂いが混ざった濃い空気の中、クッションにもたれてダラダラしながら、おかあさんと三姉妹でこたつを囲んで、ちょっとミカンが転がっただけでもゲラゲラ笑った。

あの時の部屋は永遠だ。

カール・ブッセに言いたいと思う。
「幸い、あったよ!」
そして、ここではないどこか、自分ではない自分、目の前にないなにか、ばかりを追いかけていた中学生の私にも言ってあげたいなあ。
「今、今、あなたは幸せなのよ。」
って。


今度は私が、娘にこしらえてあげる番だ。
カップいっぱいの美味しいものとそれを囲む顔ぶれを。





ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。