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『なんでもない日』

ブー!
室内の灯りは落とされて暗くなります。
これから、前方の画面で物語が始まります。




ノボさんは、カーテンの隙間から差し込んでくる光が瞼にあたっているのを感じていた。
朝だなあ。
部屋を暖めるとしよう。
ファンヒーターのボタンを押す。それからまた、一旦暖かい布団の中に戻って目をつぶる。定年退職後は、二度寝を楽しめる。目をつぶっていると、頭の中につらつらと何かが浮かんでくる。それを深く考えるのが日課だった。

「今日は、あれを見に行こう」

心がワクワクと膨らんでくるのを感じて、ノボさんはのっそりと起き上がった。枕元に準備していたラムウールのタートルネックとコール天のズボンに着替えると、鼻歌を歌いながら顔を洗いにいく。

窓の外には日差しが降り注いでいる。出かける時には、また、これを着ることにしよう。釣り人みたいなチョッキ。ポケットがたくさんついていて、安心だもの。
右の胸ポケットにキャラメル。
左の胸ポケットには、ICカード。

今日も一日が始まる。

🦌


「はい。いつも、同じ時間にみえます。
ゆっくり見てまわられた後、必ず、私がその日一番推しだと思っているパンをお買い上げくださいます。
昨日は、『ナッツざくざくパン』でした。
どうしてお分かりなのでしょう?
今日は『黒ざらめと練乳のミルフィーユパン』です。
あの方、お分かりになるかなぁ…」

駅前あおぞらベーカリー 店主田中


駅前のパン屋さんに来ると、香ばしくて甘い匂いが外まで広がっていた。小鼻を膨らませて胸いっぱいに美味しさを吸い込むノボさん。カランカランと鳴る扉を開けて入る。周りをそっと見回す。
パン屋のご主人は、一瞬、ノボさんと目が合って緊張したみたいだった。
壁にそってぐるりとしつらえてある棚には、パンが所狭しと並んでいた。ちょっと硬い歯触りのしそうなプレッツェルや、いい香りが鼻を抜けそうなシナモンロール。シャキシャキレタスとチェダーチーズとパストラミが挟んであるサンドイッチ。ノボさんはじーっと見渡した後、一つのパンに心惹かれて目を輝かせた。
──クロワッサン?ちょっと黒っぽい生地が層になっていて、間につぶつぶが挟まってるようだ。上にかかっている粉砂糖が雪みたいだなあ。とても甘そう。
トレイにその一個をのせて持って行く。
パン屋のご主人は、トレイの上のパンを見るとパァっと光るようににっこりした。店内飲食用のお皿にのせ替えて、いつものホットコーヒーを一緒に手渡される。ソーサーに、赤い実がついたヒイラギをちょこんとのせてくれた。

ノボさんはチョッキの内ポケット(左)にヒイラギをしまった。

🦌


「あの人の声、すごいんだ。週に一回、一人で来るチョッキの人。いつもは、ドリンクを持ってったら、歌うのをピタリとやめちゃう。でもたまに、歌うのに集中しまくっていて、やめない時もある。ドアを開けたら、声が降ってきて、なんていうのか、その部屋の空気だけ透明で思わず周りを見回してしまうよ。いつものボックスなんだけどね」

カラオケUTAGOE     アルバイト浩


ディスプレイの前に真っ直ぐに立って歌うノボさん。マイクを両手で持っている。歌詞の意味を頭に思い浮かべ、心を声にのせる。喉の奥から溢れ出てくる熱をおびた声がその部屋いっぱいに広がっていく。喉だけでなく体じゅうから、ノボさんの気迫が発散されている。

「‘Cause you’re the one I depend uponォォン〜 」
(だって君は僕が頼りにしてるたった一人の人)

歌う。歌う。心を込めて。

「Honesty is such a lonely word . エビバデ ソゥ アントゥルぅぅ〜」
(オネスティってなんて「ぼっち」な言葉なんだろう)

誰かが入って来たような気がしたけど、集中していて分からなかった。ノボさんは、どこにいるかも忘れて、オネスティの意味について考え続けた。最後のビブラートを心地よく響かせて目を開けると、目の前に金髪の青年が泣きながら座り込んでいる。びっくりするノボさん。青年はノボさんに飲み物を渡すと握手を求めてきた。そして鼻をすすりながら手のひらに雪だるまのマスコットをのせてくれた。

ノボさんは、チョッキの内ポケット(右)にしまった。

🦌

「図書館の掲示板に貼り出している、読書感想文のコーナーがあるんです。そこに時々、投稿してくださるペンネーム“達磨さん”の作文が優しくて心に沁みて…。ファンなのです。最近は投稿があいているので、ずっと待っているんです」

区立図書館 司書鈴木 


貸し出し期間を延長しつづけてやっと読んだ本を、ノボさんは大事そうにカウンターに差し出した。昼過ぎの図書館はゆったりしているなあ。ノボさんは、ポケットの中の紙切れをゴソゴソと触りながら廊下に出た。ロビーの掲示板の前までくると、読書感想文の投稿箱があるのが見えた。
にっこりして、そこに紙を押し込む。
ノボさんは、感想文を書いた。昨日、書きまくった。
『堕落してやろうと思います』
から始まって、
『昨日より今日、今日より明日が少しだけ良いものになっているように過ごしています。ほんの少しだけでいいのです』
で終わる感想文だった。

司書の鈴木さんは、取り出したばかりの読書感想文を読んで原稿を胸に抱きしめていた。そして走り出す。“達磨さん”を追いかけないと!

ノボさんが図書館の階段をえっちらおっちら降りていくと、エレベーターで降りてきた女性が飛び出してきてぶつかりそうになった。女性は、ペコリと丁寧にお辞儀をすると麦わらで編んだオーナメントをくれた。

ノボさんは、チョッキのお腹ポケット(左)にそれをしまった。

🦌

「ご主人様は、長いことがっかりしている。
前、うちにいた、女のご主人様のことが忘れられないんだろうな。
その人は、僕の耳の後ろをずっとカイカイしてくれたの。大好きだった。何処かへしばらく行って、おくすり臭くなって帰ってきて、どんどん元気がなくなって、最後にはいなくなったの。
ご主人様は昔はいつも力強くワシャワシャしてくれてたのに、今はそっと僕の頭に手を置くんだ。
また、ワシャワシャして欲しいなあ」

柴犬 テツ

図書館から帰ってくると、柴犬のテツが待っていた。
いつもの公園へ行くことにする。
ノボさんの好きな広葉樹がほどよく配置された小道は、この季節には葉が落ちて日が燦々とさす。「金色の時間」をテツと歩く。テツは空に鼻を向けて風の匂いを嗅いでいる。気持ちよさそうなテツの真似をして、ノボさんも、空に鼻を向けて風を吸い込んでみた。
すぅー。
ひんやりとした空気が肺いっぱいに入ってくる。乾いていて透明な中に微量の寂しさが含まれていて「冬の匂い」がした。

テツがぱっと走り出して、リードに引っ張られる。テツはベンチの下から何かを咥えて出てきた。毛糸の塊のようなそれを手のひらにのせてくれる。広げてみると、ちっちゃな靴下だった。

ノボさんは、チョッキのお腹ポケット(右)にそれをしまった。

🦌

ノボさんは家に帰ると、チョッキのポケットに入っていた品々を小窓に並べた。柊、雪だるま、オーナメント、くつ下。じっくりと並べる順番に頭を悩ませる。一つ一つ手にとって脳裏に浮かぶ景色を味わった。やがて満足してにっこりする。レコードに針をそおっと落とす。耳を澄ますノボさん。ファンヒーターをつけて、昨日から煮込んでいたスープに火を入れる。
部屋はゆっくりと温まる。窓の外は冷え込んで暗く沈んでいるけれど、内側は水滴で曇り始める。

「何もない一日だったなあ」

大きく伸びをして、椅子に深く座る。ノボさんは、寛いだ様子で、テーブルに置いたままだった文庫本を手に取り読み始めた。
しばらく本を読んでいたノボさんは、なぜかふいに、衝動に駆られて、テツを呼ぶ。

テツ!

走り寄るテツの頭にそっと手をのせる。それだけでは足りなくなって、この気持ちを伝えたいと、手を動かす。

ワシャワシャワシャワシャ
ワシャワシャワシャワシャ

こげぱんのような色をしたテツの背中から、手を通して体温が伝わってくる。あたたかい。

ワシャワシャワシャワシャ
ワシャワシャワシャワシャ

部屋の中には静かに静かに音楽が流れていた。




Fin.



🦌


この企画に参加させていただいています。

今回、初めて書き下ろした物語で参加しています。
ドキドキです。
この機会をありがとうございます。

以前にTwitterでみたツイートが忘れられなくて物語にしてみました。


ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。