「差別」の考察

1、差別に対する現代の認識

差別は、現代社会では許されないものであるという認識がある。世の中には、様々な差別があるが、その多くは許されないものとして、条例や条約、時には法律という形で、その差別の解消に向けて取り組まれるというのが、現代の差別というものへの対応である。

行政以外にも、民間の団体やグループが、差別を解消したり、理解を促進させるために、様々な差別について、出版や言論活動、講演などを行っている。これらの長きにわたる活動は一定の成果を残し、かつてよりは、理解が進んだ差別もある。

しかし、そのような活動があっても、なかなか理解が進まない、認識すらされない差別が、この世にはまだまだたくさん存在している。今回は、なぜ、そのような差別がたくさん存在しているのかを考えていく。

2、○○差別禁止法が危険な理由

最近、多く目にするのは「○○差別禁止法」や「○○禁止条例」といった、特定の人々やものなどへの差別を禁止する法律や条例の話である。

これらは、一見すると、大変よいものに見えるが、実際には、一定の効果はある一方、大きな副作用ものししかってくる。

一般的に、これらの法律や条例が施行されると、その差別は禁止されたり、しないように努力せよ(努力義務と言います)という「義務」が生じます。

これだけを聞くと、まだ「良いもの」に見えると思うので現実を言いますと、例えば、これが「障がい者差別」の場合、まずは法律に則り「理解の促進」や「差別的待遇(扱い)の禁止」が始まる。そうなると、事業者や地域住民たちは、それらを「迎え入れる」ために、様々な工夫や対応、苦労をすることになる。障がい者の特性に合わせた対応にも、大変な時間や手間がかかるのは、隠しきれない現実である。これを防ぐため、障がい者差別分野を中心に「合理的配慮」という言葉が生まれた。

合理的配慮をざっくり説明すると「配慮はしてね、でも、そのせいで事業者が潰れるほどの配慮をしろという意味じゃなくて、できる範囲で配慮してね」ということだ。

でも、配慮をする事業者や地域住民からすれば、その負担は小さくない。実際に障がい者が来れば、理解のなさやミスマッチなどでトラブルは増える。

そうなると、人間は組織と自分(地域コミュニティと自分)を守るため「優しい差別」を始める。
つまり「障がい者を受け入れたくない」と言うと問題になるから「障がい者を初めから入れない」「なんとかして追い出す(自主退社に追い込む)」ということを始める。
初めから入れない、優しく追い出すことで、トラブルを避けながら、障がい者を避けるようになる。

現に発達障害や精神障害、一部の身体障害や重度の知的障害、氷河期世代は、優しく排除されている。

理解したくても、できない、現実と違う、でも「来るな」と言えない、言えば「差別主義者」と叱られる…。訴訟になるかもしれない、という「健常者の恐怖」が増大し、なんとかして、揉めずに追い出そう、揉めずに入れないようにしようという方向が出来てしまう。

これは障がい者だけではなく、その他の差別でも起きうる問題である。

つまり、差別を禁止し、理解を求めると、逆に追い出される危険性があるのだ。

そして、○○差別禁止法には、もう一つ最大の問題がある、それが「差別の透明化」である。

○○差別禁止法のような法律ができると、その差別は禁止された=これからマシになると誤解されることがある。

しかし、それは違う。何十年、何百年と続いた差別が法律ひとつで終わるわけがない。しかし、法律ができると、そのような誤解や「お前たちはいいよな」という、他の差別で苦しむ人々からのまなざしが向けられることもある。

これが起きると「差別の透明化」という問題が起きる。表向きには差別が減ったように見えるが、差別が地下に潜り込み、逆に見えづらくなるという現象である。○○差別禁止法より、世間では○○の理解を促すポスターや講演、テレビ特集が組まれ、一見良くなったように見えるが、人間の差別心を舐めてはならない。地下に潜った差別に苦しむ人は、以前ほどの注目も受けられなくなり、自分から助けを求めて動けない人にとっては辛い世界になる。

○○差別禁止法を作るときは極めて慎重に、時間をかけ、何より一般社会で生活する当事者の声を大切にして、議論すべきである。そうでないと、よくわからん逆差別法になってしまう。


3、差別はすべて悪か?

差別とは、基本的には悪いものである。しかし、最低限必要な差別も存在する。

差別とは、それにより、特定の人々に害を及ぼすものと考えられるが、差別のなかには「特別扱い」も含まれるという考え方がある。

つまり、障がい者や性的少数者などを「差別されているから」「生活するうえで困難があるから」として、良かれと思って実施されている「特別扱い(例えば障がい者割引や自立支援サービス、特別な相談窓口の設置など)」が、逆に差別である(正確には差別があるから行われている救済措置)から、真に差別をなくす過程のなかで、こうした「特別扱い」が徐々に減ったり、削減される可能性がある。

差別は悪い、差別をなくせ、私たちも普通の人という、社会を良くするための声を上げた結果「差別や困難の存在」を理由に実施されてきた救済措置が、徐々に見直され、削減や内容の変更が起きる可能性や、差別の表面的な減少により、これまで「差別の存在」を理由に保護されてきた人々にも「一般人の義務(就労や一般の教育、免除のない納税など)」を求め始め、逆に苦しむ人々が生まれることがあり得る。

世の中には差別で苦しむ人々がいるように、差別により生活できている弱者の存在がいることも、認識しておくべきである。

差別により、社会復帰や社会参加が妨げられることはあってはならないが、それと同様に「どうしても社会と関われない人に、障がいは個性だから頑張りなさいと言って、今まで虐げられてきた歴史に思いを馳せることもなく、新しい時代の障がい者観(LGBT観など、その他の差別も含む)を半ば強要する仕組み」もあってはならない。

その人が、どうしたいかは、その人が決めることだからね。

差別は時に人を守っていることもある。
差別は悪でも、根絶やしにすべきものではない。
上手く付き合っていくべきものだ。


4、それでも差別をなくしたい人へ


結論から言うと、差別はなくせない。
できることは差別を減らすことである。
なぜなら差別は、人間なら程度の差はあれ、みんながどこかでしているからだ。
そして、差別は人間の本能であり、完全にゼロにすることはできない。

無理にゼロにしようとすれば、その差別が消えるかわりに別の差別が生まれる。差別用語を禁止しても、別の隠語や表記のしかたが出るだけだ。
例え、表からは差別を根絶できても、人の心に差別の根は残り続ける。差別の根があれば、発言や文章には出なくても態度や行動に出る。

差別をなくすなどできない話だ。
しかし、差別を放置してよいわけではない。
差別のなかには、人の生活や命に繫がる差別もある。そうした「危険な差別」はできる限り減らす努力をすべきである。

だが、些細な差別(本人が見てないところで本人の容姿や病気を叩くとか、オタクってキモいよな、みたいな何気ない一言)まで、ゼロにしようとするのは、上記のような理由から推奨しない。

そんな些細な差別まで取り締まれば、絶対に反動や副作用が強く出る。問題は「生活や命に繫がる危険な差別」をどうするか、それだけだ。


5、君たちは差別を根絶やしにしたいか、それとも社会と共存したいのか。

この世界には、残酷に聞こえるかもしれないが、一定数「差別に生かされている人々」が存在する。

みんなが「これは差別だからなくそう」と言っても、当事者のなかには「余計なことをするな」と思う人もいる。

日本は、どんな重度の障がいでも、病気を抱える人でも、特性がある人でも、基本的に生活ができる社会である。これは日本国憲法第25条で明記されている「生存権」の理念から考えても当然である。

しかし、その根底には「哀れみの差別(区別ともいう)」がある。

「この人は○○だから、できなくても仕方ない」
「この人は△△だから、しょうがない」

このような言葉や風潮は、差別であると同時に、その人を守ってもいる。

哀れみの差別とは、そうした「気の毒に思う心」や「同情する心」「諦めのような感情」「差別心」などから起きる「区別」である。

日本では、それに加え生活保護や合理的配慮といった、素晴らしい制度もある。

これの根底にあるものも「区別(哀れみの差別)」だ。

これらは、様々なハンディキャップや、特性のある人が、社会に参加するために必要になることもある。例えば、知的障害のある方の場合、一般就労は困難でも、福祉的就労や障がい者雇用を利用すれば、就職という「社会との関わり」を持つ機会を得られることがある。

これの根底にあるものも、そうした哀れみの差別であり、完全に差別をなくすとは、障がい者に限らず「何らかのハンディキャップや特性がある人」にも健常者と同じことを求め、できなければ「努力不足」という、ある意味残酷な社会になる。

そのうえ、差別がなくなっても、なくなるのは表面上の差別だけである。人々の意識にある差別心はなくならない。

ここで私は差別をなくすという正義の味方に、あえて悪役として問いたい。

「差別をなくすなんて、本当にしてよいのか」
「多少差別はあるが、様々な人が共存できる社会と、差別は表面上なくなるが、参加が妨げられ、見えない差別は続く社会、どちらを望むのか?」と


6.差別はなくせない、だから減らすもの


差別はときに、必要なものもあるという話をしてきた。これは、障がい者に限ったものではなく、差別と呼ばれるものは、人間の深層心理に根付いたもので、完全にはなくせないのだ。

だから、なくせないものをなくせば、歪みが出る。

差別をなくせば起きることは、差別の地下化と、巧妙化、そして、新たな差別の登場である。

よいこととされる「差別をなくすこと」には、落とし穴がある。

やりすぎは禁物なのだ。

今の世の中は、必要な差別(区別)まで、なくそうとしている。その結末は、みんなが当たり障りのないことを言いながら、裏で差別をし合うディストピアである。

これを見た皆様は、私のことを「差別主義者め」と非難するだろうが、それでも私は危険な差別を減らし、差別と共存し、あらゆる人が、各々の形で社会に参加できることを望んでいる。

私が「差別をなくす」と言わない理由は以上である。