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徒然なるままにうみちゃん

ようやく生まれてきた子どもについて、ちゃんと向き合って色々書けるくらいの精神になった。
告知当初は自分の病気のことも辛かったけど、そんなことよりお腹の赤ちゃんだった。

結論だけ先に言うと、28週0日で出産。
女の子で、出生体重は1128g。
扱いとしては早産、極低出生体重児になる。
現在、生後50日前後で酸素が取れ、エグいほど順調に育っています。本当に本当にありがたいことです。生きていてくれるだけで、本当に本当にありがたいことなのです。

そもそも早産になった原因は、母体である私の白血病が発覚したこと「のみ」だった。
白血病が告知されるまで、検診でも異常は無く、ごく一般的に育ってくれている赤ちゃんだった。

一方白血病という病気には、発覚したら即座に治療が求められるという特性があった。
一般的に告知日の翌日から入院して、翌々日くらいから抗がん剤が始まる。

しかし妊婦に抗がん剤は投与できない。胎盤を通って胎児に影響してしまうからだ。
そのため母体の治療を行うには、早産であっても出産させなければいけないという訳だった。告知された段階での胎児はまだ27週2日だった。

告知日の翌日である6月2日に私は入院。
色んな検査を受けて6月6日(27週5日)で帝王切開をしようということになった。
出産日の決定は、白血病の進行と、胎児の成長具合のバランスを見て絶妙な判断が求められるやつらしい。小児科と血液内科と産婦人科とNICUの先生が忙しい中で集まって決めてくれた。

幸いにも入院の段階で想定体重は1000gに届きそうであり、出産日には1000gは超えているだろうということだった。
詳しくは書きたくないけれど、出生体重が1000gを超えているかどうかは一つの指針だ。

私としては赤ちゃんには1日でも長くお腹にいてほしいが、それは白血病の治療が遅れるということと同意であり、そうなるとシンプルに母体のリスクが高まるという。健康に産んであげたいけれど、自分が死んだら本末転倒だ。

私は自分が死にたくないので早産を選んだ。
自分で選んだことながら、なんて人でなしなんだと思った。
早産による子供へのリスクを説明しながら、どの科の先生も「誰のせいでもない」と言ってくれたが、私のせい以外何があるんだと思う。

どう考えても生まれてくる子が背負うリスクは私による人災だ。私のせい以外ありえない。じゃなきゃ誰のせいだってんだ。
本当に辛くて辛くてどうしようもなかった。だけど私が辛いなどと言うのは、お門違いだと思った。
本当に辛いのは子ども自身で、私は加害者でしかない。ナイフで人を刺しておきながら「痛そう、かわいそう」と泣く加害者に誰が同情する。
自分のせいで、何の罪もない子どもにたくさんのリスクを背負わせること、障害の可能性を残すこと、発達の遅延を負わせること、これらは全て不確定ながら決定事項だった。

手術の予定日までは泣いて暮らした。
息子とテレビ電話をしながら泣いて、産婦人科でエコーを見て泣いて、自分の病気の説明を受けるたびに泣いた。
一生分泣いたんじゃないかというくらい泣いた。
それでも誰もどうにもしてくれなかった。当たり前だけど。世界を呪った。

泣いてもわめいても手術予定日は来た。朝から血液検査をして、エコーをして、内診をして、心の準備をした。
したらば、病室に入ってきた産婦人科の先生は神妙に「延期しましょう」と言った。
そして私はお口ポカーンになった。

この間、産婦人科の検査と並行して、白血病の詳しい検査もしていたわけだけど。
その結果が出て、私の白血病が比較的緩やかな進行をするタイプであったこと、骨髄内の癌細胞の占有率が現在時点でやや低めであることなどが分かっていたらしい。
その結果を色んな科で総合的に見てくれて、あと2日間なら出産を延期してもギリ大丈夫という結論になったということだった。

2日ばかり延期して何になんねん、と思うかもしれないけれど、この2日にはめちゃくちゃ大きい意味がある。
2日間の延期を経ることで、赤ちゃんの在胎週数は28週0日となる。この28週と言うのは早産の大きな一つの区切りで、簡単に言うと1000gをこえる28週からは赤ちゃんの生存率が上がり、逆に障害や病気の可能性は下がる。

嬉しかった。先生が神様みたいに見えた。
一応、先生にはポーズのように「延期で良いですか?」と聞かれ「勿論です、ありがとうございます」と答えた。
あまりにデカい絶望があると、少しでも良い方向に転じることがギフトに思えてしまう。めちゃくちゃ嬉しかった。絶対に間違っているけど、進行をゆっくりにしてくれてありがとう、と白血病細胞に感謝さえした。

娘の誕生日は6月8日になった。
晴れて、明るい感じの日だった。
一人目の出産は硬膜外麻酔だったが、今回は時短のため全身麻酔だった。そのため前回より手術感が強くて怖かった。色々装着されている最中はガタガタだったけれど、麻酔を入れられたら秒で意識を失った。
娘は生まれた瞬間からNICUに入り、私は目覚めてから集中治療室に入った。あとから母子手帳を見て、出産まで1分しかかかっていなかったことを知った。
心配していた体重は1128gあったとその日のうちに聞かされ、ホッとした。体は痛かったけれど精神的にも疲れていたのでその日はすぐに眠れた。

それから自分の治療前に、娘には3度会えた。
初めて娘と対面したのは出産日の翌日。血小板減少による出血を懸念されストレッチャーに乗ってNICUに行った。死ぬほど恥ずかしかった。

起きることはまだ許されていない

初めて娘と対面して、何よりもその小ささに驚いた。身長は36cm。両手の平で抱えられてしまうくらいの大きさだった。
また、体中に信じられない量の管が付いていた。
手足に注射針、胸に何箇所かバイタルのコード、口には酸素のための挿管、他にもよく分からない機器がたくさん体に付いていて痛々しかった。
ただ、血色は良かった。28週では一般的に自発呼吸がうまく出来ない子が多いので、紫っぽい肌の色になってしまう子が多いけれど、娘の肌はピカピカに赤く『赤ちゃん』という感じだった。

それからすぐ口からの挿管はなくなり、鼻からの酸素になった。帽子を被され、鼻にマスクをつけた娘の顔は外からほとんど見えなくなった。
それでもリモート面会をした家族は可愛いねと言ってくれた。私もとても可愛いと思った。

私は、抗がん剤が始まると白血球が一時的に0に近くなるため、クリーンルームという菌を入れない部屋に隔離される。何日か経過を見てもらい、抗がん剤のOKが出てから、薬を始める前ににもう一度娘に会った。
管を付けたままで、ベッドごと抱っこさせてもらえた。

起きることが許された

不思議なもので娘の顔を見ていると、自分の治療への不安は消え、娘への心配や、愛おしさばかりが浮かぶ。
抱いているとあたたかくて可愛くて、この先娘にどんな障害が残ったとしても全力で守って、一緒に生きていきたいと思った。

それから1ヶ月娘に会えない日々が続いた。私は抗がん剤を入れ、血球減少したり熱を出したりしながら過ごした。
同じ病院に居るのに会えないのは辛かった。だけど良い時代になったもので、SkyPhoneというアプリでもって何度もリモート面会をさせてもらった。
大きさや感触こそリアルには伝わらなかったけれど、私の体調の良い日は、映像で娘の顔を見せてもらいながら、その日の様子を教えてもらえた。

こういうのって、普通娘の検査とか診断とか色んなことを順を追って書くんだろうけど、なんせ自分のことでいっぱいいっぱいすぎて全然覚えていない。
今のところ順調ですか?という趣旨のことを毎回NICUの先生に聞いて、順調だという答えを得ていた。それだけで精一杯だった。

娘がどうというわけではなく、データとして低出生体重児は発達障害や合併症の頻度が高いとされている。
今のところ身体的に重篤な障害などは私に報告されていないから多分発見されていないんだろうけど、娘の発達に関して、背負わなくても良かった負荷を背負わせてしまうことに対して、きっと一生後悔するんだと思う。
それでも私は娘が生まれてきてくれて本当に嬉しいし、私も今(一応寛解導入が成功して)生きていられて本当に嬉しい。

どんな状態であっても娘に生まれてきてほしいと思ったのは私のエゴで、もっと言えば子どもが欲しいと思ったところから全部エゴで、だから私は一生賭けて子どもたちが幸せな人生を送れるように邁進したい。
こっちの勝手で生んで、しかも負荷を背負わせた状態で生んでしまって、私はもう娘に対して返しきれない借りがある。
それを少しずつ、真っ当なやり方で返していきたい。そのためにも生きていく、生きていきたいと強く思う。

私はまだまだ、冬まで退院できない。
だけど娘はありがたいことに体重2000gを超え、もとの在胎週数37週に到達する8月の後半ごろに退院できる見込みだ。
私が娘と家族として一緒に生活できるのはまだまだ先の話。だけど娘が今日まで痛いことや苦しい思いに耐えながら健やかに育ってくれて、NICUを出られるくらい大きくなってくれたことが本当に本当に嬉しい。これもエゴでしかないけれど、娘が生きていてくれるだけで心の底から幸せだと思う。


障害とか発達とか、正直なところ娘がどうなるかは何年か越しにしかわからない。願わくば健康に大人になった娘と、あの時は大変だったけど、全然大丈夫だったねと笑い合いたいと願う。
だけどもしも不穏な何かが顔を出した時にも、娘の望むように一緒に生きられるような力になりたい。そしてあなたは生きているだけで良いんだと伝えたい。
息子の時もそうだったけど、娘にも貰ってばかりで何か返せるものがあるか長考する。人生全部あげても返し切れる気がしない。
それでも一緒に生きていける未来が朧げながら示されていることが嬉しくて、私の希望になってる。

月並みすぎるけど、生まれてきてくれてありがとう。本当に本当にありがとう。
生きていてくれるだけで本当にありがたい。嬉しい。こんな気持ちになれるってすごい。可愛くてあったかい大切な私の赤ちゃんの話を、徒然なるままに。

最後に、予定日から2ヶ月以上早く生まれてしまった娘だが、幸いにも名前はもう決まっていた。
宇美ちゃん。
本当は夏生まれのはずだったから、うみ、という響きは私が決めた。夫がそれに字画が良く、美しい漢字をいくつか当てて候補を作ってくれた。そして、最終的にその中から1歳の息子が指差しで一つを選んだ。それが宇美という名前。
家族みんなで付けた名前だからとても気に入ってる。はやくみんなに呼んでほしいね、楽しみだね、と今日もリモートで話しかけてる。幸せだ。

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