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電気グルーヴ!! テクノサウンドに日本の抒情が差し込まれていく境地について

電気グルーヴの公演を観に、みなとみらいにある、ぴあアリーナMMに昨日行ってきました。

瀧さん薬物逮捕事件、コロナ禍を挟み約3年ぶりのコンサートだったのですが、改めて電気グルーヴの音楽のワンアンドオンリーの特殊性と素晴らしさを実感した夜でした。

電気グルーヴの音楽は、日本では残念ながら大衆音楽文化にはなりえなかったテクノ/クラブバーティーカルチャーにおけるグローバルな質とセンスを保ったサウンドが軸になっています。彼らの音楽はきっちりと文化背景も取り入れた上でのテクノであり、「今、打ち込みクラブ系が流行ってるんじゃーん」という体で、クラブ通いもせずそういう手法をイージーに取り入れてきた凡百のミュージシャンとはまるで違う。

AGEHAやcontactというクラブが次々と閉店し、DJ/クラブミュージック体験が可能な場所が極度に減っている昨今ですが、果たして、彼らがコンサートで打ち出して来たのは、曲たちをクラブミックスで繋いだロングセット。魅力ある彼らのトークを期待していた人も多いと思いますが、「執行猶予、あけました〜!」というお約束入りのそれらは最小限に封印。

定評あるビジュアル、VJの展開とともに繰り広げられたステージは、完全なテクノパーティーであり、その空間と時間を多分クラブには縁のない観客に叩き込み、陶酔に導く様は、前述した昨今のクラブ受難を鑑みると、その成熟した完成度も含め、もはや伝統芸能継承の手つきにさえ見えてしまう。

クラブに親しまない人々も、電気グルーヴがクリエイトする、こういうしつらえならば、テクノを体験し堪能できるのです。なぜ、電気グルーヴだけがそれが可能かという点は、何といっても、歌詞、 タイトル、そして、コンサートの名称などの全てのコピーに現れる、卓抜な言葉の選び方にあります。

ガリガリ君by『ガリガリ君』、高いぞ高いぞ富士山by『富士山』、つながるような 色めく世界 麗しの時よby『Shangri-La』 と、こういう言葉たちが、音だけならば別段、イメージを連れてこないループトラックに「刺さる」時、リスナーの心には、音楽と結託した超個人的な情感がドバドバ湧いてくる。

そのキーワードは「子ども時代」。電気グルーヴのふたりは幼なじみであり、ラジオや書籍などで発揮される、アンファンテリブル(怒れる子供)的な毒舌&悪ふざけを大人になっても続けている確信犯。う●こ〜! チンチンなどの下ネタ下品言葉を、ずっと言い続けている感じがあるのですよ。「もはや、いい大人はそこに戻ることができない」その失われた黄金期が、テクノのエネルギッシュなダンスミュージックサウンドの中に、郷愁としてしみじみ立ち上がっていくるところが、電グルの魅力なのです。

実は石野卓球のDJにも同じ感じを持ったことがあるのですが、夕方になって、外で遊んでいた友だちがみんな家に帰ってしまった後のひとりぼっちの寂しさ、のような、童謡の『ゆうやけこやけ』や『赤とんぼ』と童謡のエモーションが、電グルにはある(そういう意味では、石野卓球は、三木露風や壺井栄、北原白秋のDNAを受け継いでる?!!! 卓球は白秋が言うところのトンカジョンみたいだ!!!)。それが、グローバルで本能的ではあるが、感情に抵触しないテクノに埋め込まれているところが凄いのです。

子供時代の郷愁だけではありません。大ヒット曲『Shangri-La』では、性愛の本質的な官能性、『Nothing's Gonna Change』では、恋愛の陶酔などの「オトナの情感」を、トラックの中に散りばめられた上モノのメロや音色で倍増してくるしね。

『富士山』に至っては、ペンタトニックの民謡調メロに高速縦ノリのビートが加わり、フジサン、のリフレインと友に、会場中がよさこいソーラン節状態。わっしょい、わっしょいってね!! そう、彼らはよーくわかっている。日本人の祭りモードをテクノに喚び活けることのリアルを!!

そしてそして、めくるめくパーティーの締めに登場したのは、名曲の『NO』でした。「学校ないし 家庭もないし ヒマじゃないし カーテンもないし 花を入れる花瓶もないし 嫌じゃないし カッコつかないし」というこの曲の歌詞は、一見引きこもりの青春時代の代弁かと思いきや、今や、全ての世代が共感共鳴する心情に満ちあふれています。実際、観客層は幅広く、60代とみられる人々から若者まで。電グルはPVがとてつもなくカッコいいので、このYouTube時代より多くの観客を得ていくでしょうね。

カーテンも、花瓶も、家庭もあるくせに「そう、これは私なのだ!」と皆が思ってしまう。この歌詞が長調の童謡っぽいシンプルで明るいメロディーとテクノビートに乗って届けられる、何というこのアシッド感! ポップスには「人生応援歌」が充ち満ちていますが、申し訳ないがここまでの表現じゃないと、ワタクシの人生は応援されないんですわ!!

電グルの映像表現としていつもタッグを組むDEVICEGIRLSのビジュアル、VJも凄かった。電グルの重要ポイントの「言葉」をあるときは補完し、あるときは反撥してこちらの思惑を破壊する恐ろしいほどの力量に満ちていました。

もともと、電グルのPVは毎回「こう来たか!!」と驚かされる内容なのですが、精緻なそれらとはまた違った、荒々しく、エネルギッシュなイメージ。大津波のような形状の大型スクリーンに、大波と船出が描かれる冒頭シーンは、このままヴェルディオペラの『シモン・ボッカネグラ』に使えますよ!!

『Shangri-La』の官能性は、場末の娼館の壁紙みたいな極彩色のプリント1枚で表徴。ああ、このセンスが先日の『浜辺のアインシュタイン』に在ってほしかった。そう、実は2者は、ミニマルと言葉、そしてビジュアルの関係性が非常に似ているんですよ。

楽屋にて、御大ふたりとパチリ。滝さんはFBユーザーで、私の投稿を読んでいただいているみたいで嬉しい限り。卓球さんも、クラブカルチャー雑誌編集長時代に、一度インタビューしただけなのに、楽屋で並んでいる私を見るなり「湯山さんだ!」と言ってくれたのに感激。楽屋は野田努さん、tobyさんなどもいて、同窓会状態でした。

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