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歌舞伎座9月『東海道四谷怪談』を4回観て分かる、鶴屋南北の脚本力

先日がワタクシの千秋楽となった、歌舞伎座『東海道四谷怪談』お岩・小春に坂東玉三郎、民谷伊右衛門に片岡仁左衛門というニザタマ布陣。また、4回も通ってしまったわけなのですが、今回がベスト。お岩の顔が薬で変化し、死ぬまでのこの作品の真骨頂にコレまでで一番、ネットリと重い空気が流れたのがまさに本日。なんでこんなに通うのか? というのは、たぶんもうこの演目のこの極上のふたりの顔合わせは無い、と踏んでの血肉化のゆえん。

映画にもそういう所があるのですが、物語やセリフが了解済みだと、そこに囚われずにいろんな所が見えてくるのです。いやー、本当に玉三郎のお岩の、病弱な女の身体が夫伊右衛門に無体に扱われ、毒が回り、自分の顔が醜く激変し、按摩宅悦から夫と隣家の共謀の真実を聞き、怒りと恨みとで悪霊化していく所の、いちいち変化していく身体の「型」が、もうもう凄いんですよ。そうねー、今だったら、『鬼滅の刃』で鬼が形態変化していくアレを完全に身体と舞台構図で行っているわけですね。お岩が初めて自分の顔を鏡で見て驚愕するシーンは、宅悦がお岩の後ろから背後霊のようにかぶさって、異形化した二体になる、とかですね。円山応挙の幽霊絵や上村松園の「焔」が舞台の上で動いているわけです。

しかし、鶴屋南北の脚本力、恐るべし。人間の心の中に潜むサディズムの標的になってしまうタイプがこの世の中には存在していて、それがお岩。彼女は、夫の暴言、酷い態度にとにかく、よよよと耐えて悲しんで泣くのですが、そこには相手に良心の呵責を起こさせたい、という欲望がないとは言い切れない。

そう、これパッシブ・アグレッシブ(受動的攻撃性)といいまして、封建社会の男尊女卑ではそれが女の数少ない抵抗の方法だったことは明白なのですが、そこに気づいてしまう男はそれをトリガーに、サディストと化していくわけです。ちなみに、この構図、実は今でもしっかりと日本社会の男女関係に存在していて、ミソジニーの一因のひとつだと私は思っていたりします。

南北描くところのお岩は、完全に被害者で何も悪くない存在なのに、観客のコチラとしては、伊右衛門のように彼女を足蹴にしてもいいような「鈍さ」と「弱さ」があるんですね。つまり、お岩に対していじめっ子の気分にさせる、という人物造形をしている。これ考えてみれば結構怖いことで、その「鈍さと弱さ」というものが、いつもギャアギャア泣いている子ども、産後の他体調が最悪でだるい身体、という「女の宿命」と重なっている点が、絶望的。

その境地を表現したのが今回の玉三郎と仁左衛門のコンビ。つまりいじめっ子の伊右衛門は、悪者なのに屈託がなく、男たちにも一目置かれるいい男。そう、今流行のサイコパス美男であり、天性の悪人だから、そこに人間的なドロドロ感は無い。ちなみに、このAIみたいな軽さは、既得権と強者故の鈍感さで、平然と差別的な言動を重ねてしまう一部の男性の姿を髣髴。一方、いじめられっ子のお岩の玉三郎は、美しさを全隠しして、女の「嫌な弱さ」を全身に重くまとっている。

さて、お岩さん、そんな面相になった窮地でも、髪を整え、お歯黒をさして、隣家と夫に抗議しようとするんですよ。この「身だしなみを整える」という社会的行為を、このホラー話のクライマックスに持って行くところが、南北のイヤーな才能。

武家の妻としてのプライドと正気を持ち、つまり人間らしく生きようとする最後のよすがともいえる行為なのだけれど、その必死さと社会性への希求が、「バケモノの顔」になってしまった彼女にとっては、もはやホラー話にしかならないわけです。

このシーンの残酷さは、まさに人間の尊厳を叩きつぶすことが最大の快楽となる、サディストの暗い欲望と表裏一体。ちなみに、このあたりはサドの『ジュスティーヌ』参照のこと。

フィーメルトラブル。女であることの災難。『東海道四谷怪談』は実はその一大テキストであった、という話。

写真はポスターですが、ビルの照明が映り込んでいて、時空を越えた男女関係を上手く表現していまっす。

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