雑文

塾講のバイト時代に、SF小説書いてって言われて書いた塵芥です。
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ついにやったぞ。私は人類史上初めて、死を克服したのだ。
有史以来、それは人類にとって絶対的な畏れであった。死への恐怖から目を背けてるため、宗教が生まれ、神が創られ、人は縋った(それが結果として無数の死をもたらす争いの火種となっているのは、なんとも皮肉な話であるが)。
私は自身の身体をすべて機械化することで、万物の霊長の、その先へと進化した。私は不老不死と呼ぶべき存在となったのである。
一言で機械化と言えば簡単だが、その道のりは困難の極みであった。筋肉や循環器系は比較的容易に無機物で代替することができた。消化器官系、特に肝臓については、その複雑な機能を再現するために、やむなく元の大きさに収めることを諦め、結果として実に7エーカーほどの敷地いっぱいに工場を建てることになってしまった。まあいいだろう、いずれ元の大きさよりも小さくしてみせよう。何しろ、私には余るほど時間があるのだから。
さて、問題は脳である。これこそが私のすべてといっても過言ではない。もちろん私は悩みに悩んだ。他の箇所をいくら機械化したところで、脳さえ元のままであれば、それは私である。だが脳までサイボーグへと代替してしまったとき、それは私と呼べるのだろうか?私の思考をコピーした、単なるプログラムに過ぎないのではないか?繰り返すが、私は大いに悩んだ。しかし、脳以外をサイボーグにしたところで、脳が寿命を迎えしまってはなんの意味もない(脳自体の寿命はせいぜい200年だ)。そこで私はこう考えた。いずれにしても、脳を機械に置き換えなければ、少なくとも人間としての私の天寿は2世紀を待たず訪れる。ならば、仮に脳を機械に置き換えることで私が永遠に失われてしまったとして、なんの差し支えもないのではないか?
そう思うと途端に気が楽になった。私は脳に蓄積された記憶データをスーパーコンピュータに保存し、それを機械化された私の身体にダウンロードさせた。するとどうだろう!そこには私が!そこには実に私がいたのだ!
私の迷いは杞憂に過ぎなかった。哲学家はどういうか知らないが、今の私はまぎれもない「私」である。こればかりは証明のしようがないが、私が私を私と言っているのだ。それがすべてである。生身の私は、記憶をアップロードした時のショックで死んでしまったようだが、ささいなことだ。
さあ、こうなると私は身体を持つのが馬鹿らしくなってきた。やはり私を私たらしめてるのはこの思考そのものなのだから、それ以外は不要の産物である。我思う故に我ありとはよく言ったものだ。筋肉に似せたエアーポンプも、馬鹿でかい肝臓工場も必要ない。私は再び、記憶データをコンピュータにアップロードし、機械の身体を棄てた。そうして私は真の自由を手に入れたのだ。時間にも空間にも縛られるのない、超生命体となったのだ。
さて、まずは手始めに宇宙の起こりを解き明かしてみよう。私に解けない謎などない。なにせ私には、無限の未来があるのだから!
ん、おい、待て。電源コードをかじるんじゃない。バカな!おい!このネズ公め!よせ!私はまだ…(終)

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