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ノマドランド 感想

※軽微なネタバレを含みます

映画『ノマドランド』観た

 アカデミー賞最有力候補との噂&既に金獅子賞、ゴールデングローブ賞を獲っている映画。監督はクロエ・ジャオ、主演フランシス・マクド―マンド。これ観終わってから知ったのだけれど、メインの2人以外の出演者は実際にノマドとして暮らしてる一般の人たちみたいです。全然気付かなかった……。個人的に一番ぐっと来たのはノマドのおばあさん、スワンキーが昔見たアラスカの景色を語るシーン。ヘラジカがいて、大きな川をカヤックで進むと崖一面に燕の巣があって、目の前をたくさんの燕が飛び交って、川には燕の卵の殻が浮いていて……と畳みかけるように淀みなく話すおばあさんの目がどこまでも綺麗でうわ~こりゃすごいと思いながらうるうるしてたんですけど、あれも役者じゃなくて一般の方だったとは驚き。

 主人公のファーンはノマド(車上生活者)。なぜかというと、住んでいた町が閉鎖されてしまったから。彼女が亡くなった夫と一緒に住んでいたネバダ州の企業城下町エンパイアはリーマンショックの煽りで企業の業績が悪化、それに伴い鉱山や工場が閉鎖され、今はゴーストタウンです。これ滅茶苦茶怖くないですか?砂漠の中にポツンと、人工的に作られた町とはいえ、ちょっと前まで人が暮らしていた場所の歴史がブツッと突然途切れてしまうという……これはここ数年よく考えていることなんですけど、社会って意外と弾性があって、戦争や災害でかなりのダメージを負っても案外(時間はかかるにしても)再生するものですよね。こんな訳の分からない状況が一年以上続いても世界は何とか存続しているし(そこが怖いところでもあるが)。そんな以外と頑丈な世界の中で、こんなにもあっけなく壊れてしまう社会がすごくショックでした。企業城下町だから企業が撤退しちゃったら仕事がなくなって、結局そこではもう生活できないんですよね。人間の居住地としての根の浅さというのか、荒れ地に敷かれていただけのレジャーシートみたいに風が吹けば飛んで行ってしまう場所があって、そういうところに暮らしている人がいるというのはなかなか恐ろしい。やっぱりアメリカは国土が広いし中部なんかは人が住んでいない部分も多いしね……日本て狭いわりに人口が多くて基本的に町と町の間にそこまで巨大な空白ってほとんどない(北海道は別にして)ので、ここはかなりアメリカとのスケールの違いを思い知らされるポイントでもあります。

 町がなくなるとか家がなくなるとか、そういったことの怖さって20歳を過ぎてからようやくうっすらと理解できてきたことの一つで、たぶんこれ5年前とかに見ていたらここまでショックを受けることはなかったんだろうなと思う。私はどうしてもこの手の話題を第二次世界大戦時のヨーロッパに絡めて考えてしまうのだけれど、地域の歴史の断絶って本当に本当に恐ろしいことだ。それに関して一つ忘れられないのが、ポーランドの学生が授業で自分の出身地の伝統について先生に質問された時に「ありません」と答えていたことだ。これは特に有名なものはありませんとか自分は知りませんということではなく、「地域社会に連続性がないので伝統と呼べるようなものはありません」ということ。現在のポーランド西部は歴史的にドイツだった部分を含んでいて、そうした地域では戦後に住民の大規模な入れ替えが発生している。つまり戦前に住んでいた人と今住んでいる人たちが全く違う人々ということだ。ポーランドになってからの歴史が浅く、伝統文化が育つ余地も戦前のコミュニティの暮らしぶりが継承されることもなかった、よって「伝統はない」。この「ありません」という言葉を聞いたのは知識として知っていることとは全く別の次元の重みや衝撃があった。人が生きてきた痕跡が空白に、あるいは他者に上書きされてなくなってしまうことがこんなに恐ろしいことだと思っていなかった。あまりに暴力的ですよね。皆さんの出身地には伝統がありますか?

 とまあ冒頭からものすごいショックを受けたわけだが、その後も当たり前に物語は流れていく。アマゾンの倉庫で恐らくブラックフライデーもしくはクリスマス~年末年始のセール対応と思しき仕事をし、それが終わったら次の仕事を求めて車で移動する。当初は気乗りしていなかったノマド同士の集まりにも参加して、顔見知りや友達のノマドもできる。道中に移る自然の風景が本当に壮大かつ綺麗で、ピンクと薄紫のグラデーションになる荒野の夕暮れなんてこれは絶対にスクリーンで観るべき。以降の詳しい展開には触れないことにしますが他にも色々と良いシーンがあります。

 実は映画を観る前にいくつか「思ってたほど社会派じゃなかった」「ノマドが生まれる背景の社会構造や労働問題に触れていない」という主旨の感想を見かけたのでちょっと警戒しながら見ていた部分があり、私としてもシンプルに「すごくいい!感動した!」みたいな感想が出る映画ではないかなと思う。何か観た後に引っ掛かりが残るというか、モヤモヤする部分があるのだけれど、そういう映画こそが良い映画だとすれば素晴らしい映画だと思う。

「いろいろあったけど、よかったよかった」となる映画が多すぎる。本当に色々あったなら、人は取り返しのつかない深手を負い、社会は急いでそれをあってはならないものとして葬り去ろうとするだろう。人と社会との間に一瞬走った亀裂を、絶対に後戻りさせてはならない。あなたがささやかに打ち込んだクサビは、案外強力なのだ。
よかったよかったと辻褄を合わせる必要なんかどこにもない。
「たかが映画だろう」と周りは言うかもしれない。
しかし映画とは何だ?ぼんやりとみなが想像するものだけが映画ではない。
表現の極北から見出される鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させよう。これら二つが美しく共存するというのはまったくの欺瞞だ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/506b6c5f189bd2d7c4245835c59b0d68fceb0e4e

って黒沢清さんも言うてるし。これは大島渚賞の時のコメントだから映画を撮る人に向けた発言ではあるけれども。

 前に挙げたような感想を持つ人たちは最近話題()になった新今宮のジェントリフィケーションの話と同じで、この映画も貧困を感動や気づきを得るための道具にしているのではないか?という指摘をしている。確かに、そういうものと無縁ではないと思うのだけれど、それ以上に『ノマドランド』はファーンという一人の人間の人生の断片なんじゃないかというのが私の感想だ。彼女は「ノマド」「ハウスレス」を象徴するキャラクターではなく、一人の、意志を持った人間として描かれている。その中でストーリーとして何処に焦点を当てていくか、どう見せていくかというのは監督を始め製作陣の裁量だろう。意図的に負の側面をぼかしたという指摘はその通りだと思うのだけれど、だからといってノマドを扱う全ての作品が真っ向から問題提起的な論調であるべきなのかというとそれもまた疑問が残る。むしろ社会問題を糾弾するという目的の下にそこで暮らす個々人のパーソナリティが意図的に消去、あるいは矮小化されている場合も少なくないのでは?(これは戦争を扱った作品によく当てはまるんじゃないかと思っている。)おそらくこの二つはバランスの問題で、どういう視点で何を発信したいのかという表現者の匙加減なんだと思う。この作品は負の側面や社会構造への批判を意図的に排除するのではなく「ぼやかすという描き方を選択した」のではないかと。何かを表現する時点で同時に表現しない何かを選んでいる、ということは大前提として、選ぶものと選ばないもの、その二つの間をできるだけ近づけるのが表現に対する誠実な姿勢なんじゃないかと個人的には思います。その点、この作品は誠実に丁寧に作られているんじゃないかな……。少なくとも映画をまともに観れる人ならこれを観てわあ、ノマドってなんていい暮らし方!ノマド最高!とは思わないだろう。

 そもそも本質的に表現は暴力性を伴うものだし、貧困の搾取については実際のノマドを出演させている時点で監督も絶対に考えているはずで、だとしたらこれは観客への問いかけなのでは?受け手側が社会問題における個人と集団のバランスをどう捉えるか、という問いかけ。搾取構造が存在するヒューマンドラマが100%全て嘘、というわけでもない(だからこそ最悪なんですが)。自分の望む答えやアクションを集団の代表と見做した個人に求めていないか?というのは特に問題意識が高い人たちにとって重要な問いだと思う。

 ファーンがノマドになったきっかけは町の閉鎖だったけれど、ノマドを続けているのは彼女自身の意志だ。心配してくれる家族や知人もいる。一緒に住もうと誘ってくれる人もいる。そういうもの全てから距離を置いて愛車で移動する生活を選んでいるのは彼女。かわいそうだと思われることに拒否感があるように見えるので、もともと芯があって自立しているしっかりした人なんだろう。そういう生き方を選択の余地なく強いられている人と彼女とはまた立場が違うので、彼女の物語に社会構造への批判を求めるのはちょっと筋が違うということなのかもしれない。ノマドという生き方をする人が増える背景と個人の物語とは繋がっている部分とそうでない部分があるというか、個人の物語を簡単に大きな物語に回収しようとすることへの留保というか。まあノマドなんて一刻も早く辞めてやりたいぜ!という人が一人も出てこないのは問題かもしれないが。いずれにせよ受け手側の読みに任されている部分がかなり大きいと思いました。

 あと個人的に気になったポイントなのだけれど、ノマドの人たちの発言に若干スピリチュアルの気配を感じた。大地と繋がるとか地球のパワーとか、そういうワードがちらちら出てくるので。実際に作中で彼らは砂漠の真ん中にいたので都市生活者より強く自然の力みたいなものを感じるのだろうと思うけれど、人が現代で幸せを感じるためにはスピリチュアルしか道はないのでしょうか……。

 鑑賞後にじわじわと効いてくる映画、そして画が綺麗だし音楽もいいのでまだの方は是非是非劇場で観てほしい!のですが……が……三度目の緊急事態宣言にして映画館にも休業要請……協力金も雀の涙で、いや本当に、一年間クラスターを出さずに人々の心や暮らしを支えてきた施設に対する仕打ちがこれかと、もう悔しくて悔しくてたまらないです。去年一回目の宣言が明けた後に初めて観に行ったのは『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』だったけど、席について予告編が流れている時点で既に泣いてて、自分でもびっくりした。やっぱり映画館とか美術館とか博物館って同好の徒に会える場でもあるので、自分以外に観に来ている人の存在ってものすごく大きい。ましてやこんな状況の中でそういう場を安全に守って開けていてくれるスタッフの方々には本当に頭が上がらないし、同じ時間に居合わせた人たちにも格別の愛情が湧こうというもの。全員愛してる、ありがとう、幸せに生きてくれという気持ちでいつも情緒がぐちゃぐちゃになってしまう。

 ”See you down the road”という言い回しが劇中に、そしてエンドロールに登場する。ノマドたちはさようならと言わずに(they don't ever say a final goodbye)、またどこかで会おうと言って別れることにしている(I just say I'll see you down the road.)と語られていて、文字通りの「この先どこかの道」と「将来」というダブルミーニングがこの物語によく映える。願わくば一日でも早くこのパンデミックが収束して、その先でまた変わらず同好のみんなに会えますようにと祈らずにはいられない。今、ウイルスだけでなく理不尽な政治の犠牲になっている様々な施設やイベントを目の当たりにして、悲しんだり怒ったり声を上げている人も本当にたくさんいて、同じ想いでいる人の多さに頼もしさを覚える一方、それだけでは到底救えないものがあることに暗澹たる気持ちになる。この道の先があるのかどうかの切羽詰まった、今まさに進行中の場面に私たちはいるわけで、後から後悔しないためにも今の自分にできることは何でもやろうと思う。通販も前売り券も買うし署名もするし開けている館があったら観に行く。好きなものを守りたいし、何より最前線で頑張っている人たちに味方がいるってことを1人分だけだったとしても示したいので。

 ここまで読んで下さった親愛なるみなさま、ありがとうございます。まず何よりもご自分と周囲の方々の健康にお気を付けてお過ごしください。それぞれの場所で戦って、必ずまたどこかでお会いしましょう。それまでどうかお元気で。

SEE YOU DOWN THE ROAD!

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