4月11日
4月11日って何の日?
と聞かれて何かパッと思いつく人はどのくらいいるだろう。私も特に思いつかなかったので調べてみたところ、4月11日は中央線開業記念日、メートル法公布記念日、ガッツポーズの日らしい。あとは詩人の金子みすゞの誕生日らしい。おめでとうございます。アポロ13号が打ち上げに成功した日でもあるらしい。おめでとうございます。
そしてこれがこの記事の本題だが、4月11日はイスラエルである裁判が開廷した日でもある。ナチの親衛隊でユダヤ人移送問題の責任者だったアドルフ・アイヒマンが潜伏先のアルゼンチンでイスラエルのモサドに捕まったのが1960年5月11日、彼の犯罪を裁くアイヒマン裁判が始まったのが1961年4月11日。60年前の今日の出来事だ。
とは言ってもここでアイヒマン裁判について詳しく論じたいわけではない。それは私の手には余りすぎる話題なので……アイヒマン裁判については映画や本が豊富にあるので興味のある人はそれらを参考にして頂いて。ハンナ・アーレントが唱えた「悪の凡庸さ」はユダヤ系のルーツを持つ彼女がアイヒマン裁判を全て傍聴して雑誌ザ・ニューヨーカーにそのレポートを連載していた中で指摘したもので、その連載は『エルサレムのアイヒマン』というタイトルの本にまとめられています。
どうした急に
とは言え私が書きたいのはアイヒマン裁判の詳しい経緯ではなくて、この裁判をきっかけに世間の認識がどう変わっていったか、ということについて。この裁判ではユダヤ人絶滅政策に関する証言者として110人以上ものユダヤ人が法廷に呼ばれ、自らの痛ましい体験を時に言葉に詰まり体調を崩しつつも懸命に語った。裁判はラジオやテレビを通し複数の国で放送され、この裁判こそが第二次世界大戦におけるユダヤ人大量殺戮(ホロコースト、ショア)が広く認識されるきっかけとなった。
中東欧近現代史をやっていて個人的に一番衝撃だったのが、戦後すぐにはホロコーストが第二次世界大戦を巡る中心的な話題とはならなかったということ。今でこそ第二次世界大戦中のドイツの犯罪=ホロコーストという認識は一般的だが、その認識が出来上がったのは戦後かなり時間が経過し60年代後半に入ってからのことだと言われている。600万人もの人々をその血統的出自を理由に計画的に殺害したという史上最悪級の犯罪が無視(もしくは軽視)されていた時期があるという事実、知ったときはかなりショッキングだった。そんなことある……?あるんですね……
具体的には「戦争中の暴力の一部」として捉えられていたというのが正しい。例えばかの有名なアウシュビッツ=ビルケナウ収容所は戦後すぐの47年に国立博物館となっているけれど、その目的は「ポーランド人民と諸国の人民の戦いと殉教のモニュメント」を作ることだった(当時はソ連影響下の共産党政権なので人民人民言っている)。ここで言う戦い=ファシズムに対する抵抗戦争。実際にアウシュビッツにはもともとポーランド人政治犯が収容されていて、そこに付け加える形で絶滅収容所としてビルケナウが併設された経緯がある。現在はむしろその事実が後景化しているが、博物館の設立以降80年代後半に至るまで専らユダヤ人の被害はポーランド人の被害の下に覆い隠されていた。隠すと言っても「ユダヤ人はここで殺されていません」と言うわけではなく、ユダヤ人の被害について言及しないという方法だけれど。展示されている遺品がユダヤ人のものであると表記されるようななったのは1990年のこと。
しかし約110万人と言われる死者の大多数だった集団のアイデンティティに言及しないって、それはもう明らかに事実を歪曲する意図がある行為だ。けれど当時ポーランド国内にその指摘をする人はいなかった。何故か?それは300万人いた国内のユダヤ人がほとんどいなくなってしまったからだ。第二次世界大戦後のユダヤ人生存者はたった5万人、その5万人もアメリカやイスラエルへ渡っていったために戦後ポーランドには戦前人口の10%を占めていたユダヤ人社会がほとんど残っていなかった。
話を戻して、アイヒマン裁判は当時の世論にとても大きな影響を与える。聞くのもおぞましいような生存者たちの証言により、ここで初めてホロコーストが他のあらゆるナチ犯罪から区別され、名前を持つようになった。もちろん生存者たちは戦時下から既に自分たちの体験を書き記したり語ろうとしていたが、戦後すぐの時期にホロコーストの生存者が直面したのは無関心、軽蔑、不信といった反応だったという。アウシュビッツからの生還者であるプリーモ・レーヴィは親しい人すら自分の過酷な体験談に耳を傾けてくれないという苦しみを著作『これが人間か』で書き記している。親しい人や身内ですら聞いてくれないのだから、いわんや赤の他人をや。そして奇遇なことにレーヴィの命日も本日、4月11日。(自死と言われているけど遺書がなかったので確証はないとの見方もあり。階段からの転落死)
明確にユダヤ人を標的にしたホロコーストの実態が広く認識されるようになるまでタイムラグが大きい理由は、おそらく生存者の証言が極度に軽んじられてきたことにある。生存者たちは往々にして迫害に遭ったこと、多くの人が亡くなった一方で自分が生き残ったことに対して恥や罪悪感を持っていた上に生存のために何らか道徳に反する行為を行ったのではないかという疑いをかけられ、自らの体験を語ろうとすれば無関心にぶつかった。ホロコーストに関する発話自体が非常に困難な状態、語ろうとすればむしろ自分がいっそう深く傷つくような状態が長く続いたと言える。その流れに一石を投じたのがアイヒマン裁判であり、証言の価値の向上は連鎖的に歴史認識の見直しを促していくことになった。70年代には大規模な証言の収集が進み、当事者以外がユダヤ人迫害を正面から扱うような映像作品が登場する。(全米で一億人以上が視聴したエミー賞8冠のTVドラマ『ホロコースト』が1978年、9時間以上に及ぶ映画の全編を証言で構成した映画『ショア』が1985年)(ホロコーストを扱った最初期の映像作品は1955年のドキュメンタリー映画『夜と霧』)そしてアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の世界遺産への登録は制定から32年後の1979年。
そろそろ終わり
ここまで長々と喋っておいて結局何が言いたいのかと言うと、要するに被害者の証言ってものすごく立場が弱いし当人に負担を強いる行為だということだ。600万人が殺された事実が数十年間無関心の下に放置される世界で、これまで見過ごされてきた声がいったいどれほど存在するのか。考えるだけで恐ろしい。その上この問題はホロコーストに限った話ではなく、あらゆる場面において今も根強く残っている。例えば大規模な災害の被災者であったり、性的暴行の被害者であったり、ハラスメント全般や刑事事件の被害者であったり。自らの受けた被害について語ることは、思い出したくない記憶を故意に蒸し返すことを余儀なくされる行為だ。勇気も覚悟も人一倍必要になる。ここ数年でセカンド・レイプや二次加害といった言葉がようやく広がりを見せてきたが、まだまだ十分といえる状態ではない。主に被害者や現状に対する不満を訴える人に対して驚くほど強い非難やバッシング、そこまで行かずとも発言内容の真偽を疑うような反応は様々な場面で見受けられる。反応があるということは無関心よりはマシなフェーズなのかもしれないが、それを喜ばなければならないほど残念な時代でもないでしょう。
具体的な話は伏せるが、最近そういった事柄に関するニュースに接する機会が何回かあった。これは私の個人的な意見だが、自分の認識と異なる証言や告発を否定もしくは疑う前に、証言、告発がなされた経緯についてよく考える必要がある。何が被害者の証言、告発を困難にしているのか?自分がその一端に加担してはいないか?少なくとも圧倒的に立場の弱い側から発された告発の真偽を(何も分からない時点で)疑うような発信は絶対に控えるべき。明確な二次加害行為であり、被害者の発言を潰すことに繋がる。その判断ができないなら黙っていることだ。自分の加害可能性に常に敏感でいないと、知らず知らずのうちに他者を傷つけることになる。問題への無関心すら加害になりかねないということは、誰もが心に留めておくべき認識ではないだろうか。
ここまで思いつきで色々と書いてしまったのでまとまらない話になってしまった。こんな散文をここまで読めた方はすごいです。お付き合いいただきありがとうございます。そして最後に、4月11日はブーヘンヴァルト強制収容所がアメリカ軍によって解放された日でもあります。ホロコースト生存者にとっての解放は新たな苦難の始まりでした。せめて、必死に挙げられた声に耳を傾けられる程度の心の余裕や強さを持っていたいと思う今日この頃の俺でした。
追記:書いているうちに4月12日になってしまいましたが書き始めたのは4月11日です。本当です。
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