被虐待児における利他愛

スピリチュアリズムの考え方では、子どもは親を選んで生まれたきたのです。では虐待死した子どもも、虐待した親を選んでくることになるのでしょうか?答えは、親を選んできたが、虐待して亡くなることは選んでいない。つまり、虐待死は自殺同様運命であるということ。つまり私たちの社会に殺されたということ。

私たち一人ひとりがこの虐待が多い社会を造っていると言えるので、類魂の法則からも、他人事では済まされないのです。「親が悪い、子どもがかわいそう」と一元的な見方、視野の狭い状態ではスピリチュアリズムの思考にはなれません。そして、子どもは自らの死によって社会問題を浮き彫りにしたという使命があるとも言えます。

虐待死した子どもは親をあの世から恨んでいるのでしょうか?生きている間に親を恨んでいる子どもはいるのでしょうか?つまり子どもに恨むという概念があるかどうかだと思うのですが、基本的にないのではないか。虐待されている多くの子どもでさえ「親の幸せ」を思っている。虐待の構造は、子どもの親への愛に、親が甘えている状況なのです。

なぜ親が子どもを殺す状況が生まれるのでしょうか?その親も正しい愛情がない状態で育ったと言えると思います。では正しい愛情とはなにか?正しい子育てとはどうすれば良いのか?

スポーツ界の親子鷹は美談として語られます。もちろん、プロで活躍する、オリンピックに出場するくらいに成長すれば良いのでしょう。大切なのは子どもの意思ではないかと思うのです。

私は小学生の時、剣道を習いました。正確に言えば習わされました。人を竹刀で叩く、このスポーツ、武道を好きになれませんでした。竹刀が防具から外れて叩かれたら、確実に痛いです。その痛みを相手も受けるかもしれないと感じたら、思いっきり叩くことも出来なければ、叩くことに何の意味があるのだろう。「面が入った」「勝った」となって何が嬉しいのだろう。もし僕が勝ったとしても負けた相手が悲しむのであれば、子どもながら、剣道を習うことに全くの価値を見いだす事が出来なかった。

何度も親に訴えたが、聞き入れてもらえず中学生になることで卒業ができた。

人間というのは子どもの純粋性を大人になるにつれて忘れていく。多くは親や大人のエゴによって奪われていくのだと思います。つまり子どもの利他愛を利他愛で返す大人が身近にいることが大切なのではないか。残念ながら現在の大人は、自己愛を満たすためのモノに溢れた環境で生きている。家事の時間を大幅に削減してくれる家電、自己承認欲求を常に満たしてくれるスマホ、自己嫌悪を癒やしてくれるアルコールなど。

そのような誘惑の中で生きて子育てをしなくてはならない。実はサバイバルの状況なのです。食うに困らない潤沢な食糧、戦争のない安全な生活、暖かい布団もあるのに、子どもが虐待死してしまうリスクの中で大人も生きているのです。

「子育てはボランティア」「教育とは、教え(真理)を育むこと」

と江原啓之氏は伝えています。子どもが、新米の親を一人前の親にしてくれる。親として人間として成長させてくれるのは、実は子どもなのです。ですから、お互いに育んでいると言えるのです。

そして子育ての目標は「親亡き後」の子どもの状態です。自らの健康管理、金銭管理、時間の管理が出来るようになったら、この日本の社会で自律して生きていくことができるでしょう。その自律というのを一つの目標として子育てをしていく必要があります。残念ながら、支配と従属関係の親子やお友達親子には自律という概念が薄いため、全ての被害を遺された子どもが被ることになるのです。

つまり親には子どもから見返りを求めない、献身さが必要であり、大人になったら自律してもらい社会にお返しするという思考を持つこと。ですからボランティア的な思考で子育てする必要があるのです。

なにかしらのトラウマや虐待を受けて育っていない人はいないと思います。その量にも影響があるし、受け止める子どものたましいの年齢も影響があるでしょう。

いずれにせよ、親が子育てを学ばないで実行するのは、車の運転同様に危険であるということです。


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