3.11に死を考える

スピリチュアリズムの良いところはグリーフケアに役立つということ。死は無ではなく、たましいは生き続ける。この考え方で多くの遺族を救ってきたことでしょう。

江原啓之氏は言います「愛する亡くなった人が夢に出てこないのは、あとを追うほど悲しんでいるから。あえて姿を見せないのです」

これも愛を感じます。まさに亡き人からの愛。愛故に姿を見せない。遺された人が愛する人の死を受け入れたとき、夢に出て再会することができる。その夢はまさに、リアルな感覚らしいです。

普通の夢はちぐはぐだったり、現実感のない内容が多いのですが、亡き人に逢う夢は現実と思えるくらいリアルで、辻褄の合う会話をしたりします。ますます「たましいは生きている」と実感出来るようになっているのです。

亡き人の遺骨を探し続ける遺族のドラマを放映していました。亡き人が見つけて欲しいと言っているのでしょうか?もし自分だったらどうか?腐敗した状態の亡骸を見つけて欲しいでしょうか?多くの人はNOではないでしょうか?

つまり遺骨を探すことは、けじめをつけたい遺族の思いであって、亡き人への愛ではないと感じます。遺骨を見つけるのに躍起になっていても、亡き人のたましいは隣にいたりするのです。その姿を感じるには、遺族が亡き人の死を受け入れることです。むしろ、生きている時より身近な存在となることが多いのです。想念でコミュニケーションができるようになったのですから。生きている間は「何考えているか分からない、ちゃんと言ってよ」ですから。

亡き人が悲しむ生き方をしない。

よく亡き人にお願い事をする人がいますが、自分がされたら・・・迷惑なことです。亡き人が安心できる生き方をしましょう。

津波から逃げて助かった人の多くは「私は助かってしまった。でも亡くなった人がかわいそうで、津波で亡くなるなんて無念であったでしょう」

でも人は自分で自分の寿命を決めて、あの世から生まれてきますから、亡くなった後に受け入れるのです。確かに、幼い子を遺して、寝たきりの高齢者を遺してとか無念もあるでしょう。しかし、厳しい様ですがそれも学びなのです。現世は不条理な場所であり、その方が人は学ぶのですから。遺された人も亡き人も同じ学びを得ていると言えます。

スピリチュアリズムの視点で言えば、あの世が本当の世界でこの世が仮の世ですから、実は遺された人の方が、特にこれからの時代を生きるには苦しみや悲しみが多いと言えます。苦しみや悲しみとはあくまでも現世的な言い方ですが、霊的価値観では成長のための学びになりますから、全てに感謝ができるのです。つまり、苦しみや悲しみの感情に支配されていれば自己憐憫となり、何も学ばない=成長なしとなります。

「今日、愛する人に会うのが最後かもしれない」

常にこの気持ちを持つことです。そうしたら後悔などありません。一瞬を一生懸命に生きる。明日生きている保証は誰にもないのですから。

常に死を見つめる、あの世を意識してスピリチュアリズムに則って今日を生きる。人生での迷子にもなりませんし、あの世でも迷子になりません。安楽死や自死が逃げであり、無駄であり、苦しむだけと理解できるでしょう。

たましいのふる里があり、いつかそこに私たちは帰る。その思いがあるから、理不尽で不条理なこの世を命の最後まで生き抜くことができるのだと思います。

生きている人も亡くなった方も浄化されますように。

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