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noteの掟みたいなやつ?

私は今年から
とにかく誰にみられなくても
誰からもいいねがつかなかったとしても
とにかく毎日何かしら書き続ける
ということを目標に掲げた。


要するに「継続力」という小さな成功体験を
積み重ねていこうと思ったからだ。



誰も読んでないだろう、
とはいえ、反社会的なことは書かない。
お下品なことも書かない。
お里が知れるようなことも書かない。



ものすごく少ないけど
いいねしてくれる人がいて嬉しい。
まぁ私が他の人のnoteにいいねしないからかも
しれないけど。
完全に返報性の法則が成立してるのかも。


でたまにアクセス数ものぞいたりする。


で、昨日ふと、気になってアクセス数
みてみたら
およよ!!!

結構な数見られて(読まれてる?)じゃないか!!!


しかも最近アップしたやつも。
平均して、ついたいいねの30倍は
アクセスが来ている。



ふむ、どうしていいねが押されないのか?



結構はっきりと辛辣に物事を書いてるから
知らない人のいいねを
拒否するような人間だと思われているのだろうか?



いいねもコメントも
大歓迎なのだが・・・



noteの掟なのか?
静かに見る。読む。がnoteの掟?
ちょっと知り合いになったら
やりとりOKみたいな
私の知らない掟でも存在するのだろうか?



Twitterとかブログとかでは
そのきらいがなくもない。
知らない人からのいいねや
コメントをとても嫌がる人もいる。


気に入った人を遡って
いいね連打をする私としては
たぶん嫌がられる人種。


まぁ、滅多にしないけど。


嫌な人もいるだろう。
でも私は嬉しい。



なんで嬉しいのか?
と思った時に、承認欲求かな?とも思ったけど
ちょっと違う。


なんていうか、存在が確認された感じ
つまり「私が確実にそこに存在している」ってことが
いいねしてくれた人を通じて
確認できる感じだから?


時々思う。


私は本当に存在しているんだろうか?


誰かと話してない時
一人でいる時
私は本当にここにいるんだろうか?
と思うことがある。


夫と話したり
犬と遊んでいたら
あ、肉体はあるのね。と
他人を通じて確認が完了する。


こうやって何かを書くということも
自分の足跡みたいなものなのかもしれない。


そう考えると
承認欲求になるのか?
いや、承認じゃなくて
現存確認欲求か?


うん、いいね嬉しいです。
連打もね。


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