そういえばしばらく泣いてない
感情が溢れてきた時に
涙が出るような気がする。
喜びにしてもかなしみにしても
怒りにしても、何かしらの感情が。
自分の許容を超えて感情が湧いてきたら
涙として表面化するようなイメージ。
そういえばここのところ
あまり泣いてない。
そういえば、私は泣き虫だった。
だけど人前では泣かないので
あまり泣かない子だと思われてたようだ。
母親の前でも泣かなかったし
友達の前でも泣かなかった。
不意にポロリと涙が溢れることがあっても
それ以上は泣かないように我慢した。
それなのに、過去の恋愛中は
自分の精神年齢が成長してなかったのもあり
よく感情が揺れ動いて泣いた。
今思えばよくあんなに泣いたな〜と思うくらい
泣いていた。
ここ20年くらいほとんど泣いてない。
夫は私の嫌がることはしないし
何かあっても私の心に毛が生え始めたからか
泣くほどのことも無くなったからかもしれない。
しかし、今は少し泣きたい気分だ。
生きているといろんな人がいる。
いろんな価値観の人がいる。
いろんな考え方の人もいる。
思考の繋ぎ方、話し方、感情の湧き方
捉え方、視点、視座、経験、思想、哲学…
他人と関わる上で
それが似通っていれば
そこまで相違は起きないし
争いにも発展しない。
理解できる確率が高いからだ。
しかし、そこがかけ離れてて
自分と重なる部分が少ない人と関わる時
自分の精神状態が健全でないと
色々とややこしい。
10人中9人には⭕️だった価値観が
その人には❌だったりすることもあって
それがすれ違いや揉め事の火種となることもある。
自分の言動が思わぬ方向に解釈されてしまって
感情のやり場がなくて
今ぽこぽこと私の中で
悲しさなのか、怒りなのか、悔しさなのか
よくわからないものが混ざって湧き上がってきている。
多分今誰かと話してしまうと
きっと泣いてしまうかもしれない。
どうしてこんな気持ちになっているんだろうか?
何が悲しくて、怒ってて、悔しいのだろうか。
そこで私はふっと気づいたけど
心地よい人と、場で
私はいつの間にか「慣れ」ていたのかもしれない。
1を言えば10を受け取ってくれる人や
話せば解釈を損なわず受け取ってくれる人
言わなくても共感や同調をしてくれる人に
甘んじて生きてたのかもしれないと思った。
自分の言動は
他者にとって心地よいものであると
ここしばらくの体験で
奢ってしまったのかもしれない。
夫に夕食時に一言言われたのが
「時々嫌われてきたことを
ちゃんと向き合わないと」
しばらく意味がわからなかったが
なんとなく見えてきたことがある。
20代半ばまでずっと人から嫌われてきて
そこから抜け出したいと
必死に心を学び、対人を学び
コミュニケーションを学んできた。
死ぬほど失敗し、怒られ嫌われて
私は「好かれる」という奇跡に辿り着いた。
大抵嫌われる人間から
大抵好かれる人間に変わることができて
私はいつのまにかそこに甘んじていたのかもしれない。
私が悪意がないことをわかってくれてる
私がちゃんとしてることをわかってくれる
私が誠実であることをわかってくれる
私が真面目であることをわかってくれる
私が信用に値する人間であることをわかってくれる
本来なら自分でそこは積み重ねて
行かねばならないところを
いつの間にか他者に委ねて怠けていたのかもしれない。
そう、私はいつの間にか自分が
誠実であること
真面目であること
信用に値することを
他者に証明することを怠っていたのだと思う。
だから価値観が違う人が目の前に現れた時に
信頼されず
思ってもみない解釈をされて
誤解され
不信感を抱かれることもあったんだと思う。
それが今の自分には
あまりにも意味不明すぎて
全く受け入れられなかったが
私はそれこそ真摯に、誠実に向き合ってなかったのかもしれない。
例えて言うなら
今まで行っていたお店は
私のことを信用してくれているから
ツケにしても何も問題がなかったのに
あるお店に行ったら
食い逃げくらいの扱いを受けて
衝撃を受けた
みたいな感じに似てるかも。
そりゃそうだ。
それぞれに関係性を作る必要がある。
自己開示や報告、相談も必要だ。
そうか、私は
人間関係において怠けて
甘えてしまったんだなと思った。
泣きたい気分はこれだったか。