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10年、断片を拾いに。

 10年ぶりに沖縄本島を訪ねた。
 "訪ねた"と言うより、"帰った"に近かった。
 父が単身赴任していた小学校〜中学の頃、長期休みの度に休み全てを使って沖縄・浦添に住んでいた。合わせて4ヶ月くらいは住んでいたことになるのではないかと思う。
 今回の目的は、自分の断片を拾うことだった。

 朝、職場までバイクで行く父を見送り、その日何するか母と決める。
 近所のかねひでで売ってる干し梅にハマっていた。
 知り合いのおばあちゃんから、サーターアンダギーとムーチーをもらっていた。
 今は閉店してしまったあしびうなーのてびちと、ジーマーミ豆腐が好きだった。
 「おばぁタイムス」を描いている大城さとし先生の父と私の父が知り合いでサインをもらった。
 美ら海水族館に行ったり、エイサーや綱引きを色々なところに見に行ったり、伊江島のタッチューに登ったり、辺戸岬から喜屋武岬まで縦断したり、名護のパイナップルパーク、琉球村、おきなわワールド内の玉泉洞、首里城、たくさんのグスクや御嶽、平和祈念資料館、ひめゆり祈念資料館、旧海軍司令部壕、恩納サイト、アメリカンビレッジ、普天間基地、嘉手納基地、数えればきりがない。

 全くルーツは無いけれど、七五三と十三祝いの写真を沖縄の写真館で琉装をして写真を撮っていた。今も歌える琉球民謡は割とある。
 沖縄は自分にとって縁のある土地だった。
 今の私を作っている断片の2/7は沖縄にある(残りの2/7はインドネシア、2/7横浜・中華街・台湾、1/7その他瀬戸内など)。

 大学に入って行動範囲が広がると、沖縄に行く友人のInstagramでよく見るようになった。
 そのほとんどは海、海、海。
 砂浜だったり、シュノーケルやダイビングだったり。
 ずっと違和感があったけれど、ずっと上手く言語化できなかった。
 見たことは無いけれど、空が黒くなり、海が赤くなったことがある、ということを私は知っている。
 青い青い海を画面におさめている友人たちの何人がそのことを知っているのだろうか。

 沖縄に着いた。
 飛行機は南部をぐるっと旋回し、那覇空港に着陸した。荷物を受け取ると頭上にめんそ〜れの看板。
 10年前はずっと車移動だったから、ゆいレールに初めて乗った。
 美栄橋の駅をおりて、ホテルで私と同様に前乗りしていた後輩と合流し、国際通りの飲み屋で夕食をとった。
 あのころと違ってビールも泡盛も飲める。
 国際通りは観光客で夜まで賑わっていた。

 2日間のゼミでの発表を終え、3日目に平和祈念資料館とひめゆり祈念資料館に向かった。
 ひめゆりは数年前に改装され、10年前と違い館内は明るい展示になっていた。

 3日目の資料館見学をできる限り全員参加の形をとって良かったと思った。
 平和祈念資料館のガマを模した展示が怖くて入れない子、証言の部屋の証言の本を最後まで読み切れない子、ひめゆり祈念資料館の証言映像を涙をためながら見る子、展示を見て何も言えなくなってしまっている子。
 私は資料館に行くのは3.4度目だから、こうなることは分かっていた。
 多かれ少なかれ傷のようなものを得ているみんなを見て、こんなこと言うと嫌な先輩かも知れないけど、これで良いんだと思った。

 怖い、辛い、苦しい、悲しい、逃げたい、むごい、耐えられない。
 それでいいんだ。
 むしろそう思ってくれなきゃ困るんだ。

 みんなまだ若いから、きっと何も無ければあと50年以上は生きるから、沖縄の楽しい部分、綺麗な部分はいくらでも触れられる。
 けどそれだけじゃダメだと思った。
 いいとこ取りだけをしている内地の人間になってしまう。
 言葉にするのをためらうほど凄惨な過去があったこと、それが今も基地と共に残っているということ。
それを知っているのと知らないのとでは全く違う。

 小さい頃、父より20以上年上の父のいとこに戦争の時の話を聞いたことがある。数年前に亡くなってしまったが、ずっと平塚のおばあちゃんと呼んで慕っていた。おばあちゃんの作る炊き込みご飯がおいしかった。

 平塚空襲の時、逃げていたら、隣を走っていたおじさんに手を引かれた。まだ小さかったから走るのが遅くて邪魔だったのだろう。手を引かれたというより、引っ張って後ろに追いやらるように、追い越して突き飛ばされそうになった。
 まずい、と思って引っ張られた手を振りほどいて走った。途中、柔らかいものを何度か踏んだ気がした。今思うときっとあれは亡くなっていた人だけれど、確認する余裕も今になって確認するすべもない。
 ただひたすらに生き延びようとがむしゃらに走った。

 という話だ。
 父方の祖父母は私が生まれる前か幼い頃になくなり、母方の祖父母は疎開していた。非常時は人の本性が出るという流れだったけれど、戦争の話を聞いたのは後にも先にもあの1度きりだ。

 小学校2年の夏休み、夜目が覚めてテレビを見ていたら、横浜大空襲の特集がNHKで放送されていた。
 作文にも書いたからよく覚えているけれど、焼け野原になった横浜で、視察に来たアメリカ兵の人が「Excellent」と書かれたボードを持ってる白黒の映像だった。子どもながらに人の死を、生活を奪ったことを「Excellent」と表現するなんて絶対に許せないと思った。
 それからというもの、夏に戦争特集の番組やドラマを見ると、毎回苦しくなっても見てしまう。というか見なければいけないと思い見ている。最近は減ったような気もする。

 戦争を経験した世代は高齢化を迎え、亡くなる方が年々増加している。
 戦争を経験した人は、自分の体験を語ってくださる。そのどれもは、怖く、辛く、苦しく、悲しく、逃げたくなるような、むごく、耐えられないものだ。
 戦争の体験は語り継いでいかなければならない。そこには私の世代も含まれている。語るだけじゃない。語り"継いで"いく、ということだ。私の世代は戦争を体験していない。生まれた約50年前に終戦し、戦争をしないことが当たり前の世の中に生まれ、今を生きている。
 あと20年もすれば、戦争を経験した人は日本にほぼいないに等しいと言っていいだろう。将来、日本が他国と戦争をする可能性だってないとは言えない。でも、絶対そうなってはいけない。

 沖縄戦では4人に1人が亡くなった。1家族に最低1人は亡くなったことになる。そして、亡くなった方の大半は沖縄に住む民間人だ。
 日本人同士が殺し合うことがあった。日本軍が民間人を殺すことがあった。重症患者に青酸カリを打って殺すことがあった。家族が手榴弾やおもりをつけた綱で崖から飛び降りて集団自決することもあった。父親が妻と子を殺し、自分も最後に死ぬということがあった。

 それがもし、自分の身に起きたら?
 自分の父親が家族を殺すことになったら。
 生まれたばかりの赤ちゃんを自分で埋めることになったら。
 飛び降りるために家族の体に綱を巻くことになったら。
 友達が目の前で機銃掃射にあって、顔がわからないくらいにぐちゃぐちゃになったら。
 動けない人に青酸カリ入りの牛乳を飲ませることになったら。
 生き残っても、夢に見るようになったら。
 家のあった場所に基地ができて、戦争が終わってもずっと家に帰れなかったら。

 排泄も生理も止まる。外科手術して切り落としたまだ生暖かい足や腕を運ぶ。マラリアに罹り苦しむ。薄暗いガマの中で生活する。負傷した家族や友達を残して自分だけ逃げる。
 そんなこと一体誰が望むと言うのだろうか。
 人が人の手によって死ぬのが当たり前な世界に誰が生きたいというのだろうか。

 「戦争をしてはいけない」と頭でわかっているだけじゃダメだ。
 自分ごとになっていないことは、同じ過ちを繰り返す。
 わかっているのとできるのは別だ。
 わかるのは頭でやること。できるようになるのは、体か心に刻みつけられている時だけだ。

 だからこそ私はせめて自分のゼミの後輩たちだけでもいいから、資料館に行ってほしかった。語りの重みを知っているみんなだから尚更行ってほしかった。
 うちの大学から社会に出れば、きっと30年後くらいにはこれからの日本社会のさまざまな分野の中心を担うようになるだろう。その中心にいる人が間違えれば、周縁にいる多くの人も巻き込まれるようにして、本人が望まなくても間違った判断に基づいた間違った行動を起こさざるを得なくなる。

 怖い、辛い、苦しい、悲しい、逃げたい、むごい、耐えられない。
 今のうちに心に刻めば、刻んだ跡は薄くなってしまうかもしれないけれど、跡は残り続ける。

 そしてその跡をふと思い出した時に、自分の子どもたちも資料館に連れて行って欲しい。嘘のように思えるし、信じられないかもしれないけれど、間違いなく沖縄で起きたこと。
 ガマを模した展示が怖くて入れなかったこと、証言の部屋の証言の本を最後まで読み切れなかったこと、ひめゆり祈念資料館の証言映像を涙をためながら見たこと、展示を見て何も言えなくなってしまったこと。
 目を逸らせば、逸らしていく人が増えれば、いつかまた同じことを人間は繰り返すだろうから。

 どんなに苦しくても、目を背けちゃいけない。目を背けることは耐えられない経験をし、その記憶を思い出し、語ってくれた方に対する冒涜だ。必ず誠実に聴かなければいけない。
 当事者に勝る理解者はいない。当事者ではない私の世代ができるのは聴くことと、残すことと、受け継いでいくことの3つだけだ。

 聴くことと、語り継いでいくことの大切さは沖縄で学んだ。その語りを受け継ぎ残していく責任も沖縄で学んだ。それは今の私の研究にも生きている。聴くことで研究を続け生きていく限り、私の中から沖縄の断片が消えることはないだろう。

 何度行っても断片があり続けることを確信した。
 拾った断片を手に取り、少しだけポケットに入れ、残りは島に置いてきた。

 海と空がずっと青くありますように。
 何度でも断片を拾いに行く。

もしサポートしていただけたらご飯をちゃんとたべようとおもいます。からだの食事も。こころの食事も。