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まなざし ~『質量への憧憬』レポート~

先日2月4日、落合陽一さんの展覧会『質量への憧憬~前計算機自然のパースペクティブ~』を観覧した。落合さんの作品と言葉とを前に、上手く自分の言葉にはできないかもしれないが、ここに残しておきたい。また、全ての作品を語りたいところではあるが、今回は印象に強く残ったものに絞る。

会場の入り口が分からず迷ってしまった。amanaと書かれたトラックを見て「きっとあれに付いていけばたどり着く!」と思い、スタッフ入口に入りそうになってしまったけど無事に着いた。

 川に面したガラス張りの会場。スタイリッシュなその場所は、程よく来場者が出入りしている。年齢層はやや若い。静かな室内は壁や柱がシンプルで、作品そのものを引き立てているように感じた。

ガラスの障子

 まず目に入ってきたのは『映像を生ける1』とその壁だったが、その隣にガラスでできた障子のような作品があった。いくつもの格子があって、ルーペのように遠くの景色が大きく見えたり光が虹色に反射する格子もあれば、向こうがそのまま見えるところもある。作品なので触るのははばかられたが、いったいどうなっているのだろうと近づいたり離れたり斜めに見てみたりした。

枯れ木

 存在感のある大きな枯れ木に巻き付く人工的な光。そういう作品がいくつかあった。入り口すぐの、上に向かって伸びる枯れ木、奥の展示にも光をまとって龍のようになった枯れ木。自然界で生き生きと育った時間の経過と、煌々と光を放つ人工のライティングは、もともと同じ環境にいた訳ではないからこそ隣り合うと不思議な魅力が出るのかなと思った。それと同時に「自然と人工」は展覧会の一つの題材になっているのかもしれないと思った。『コンクリに咲く花』や『苔とコンクリ』もそうだ。

 もう一つ気になったのが、今も挙げたコンクリ、コンクリートの存在である。大木の枯れ木の展示の足元には、展示の台の重しにするためか真っ二つに割ったコンクリがあった。重しにするだけだったら他のものでもいいわけだし、コンクリであっても割る必要はない。特に理由もなくただかっこよさなだけかもしれないし、壊れるとか壊すということに何らかの意味があるのかもしれない。

そう思いながら進んでいくにつれて、コンクリが目立つようになっていった。ブラウン管と液晶画面の作品ではそれらの周りや上にコンクリのブロックや粉々のかけらが散らばっている。コンクリートは、落合さんの言うところの「工業社会の残滓」。コンクリートを工業社会が産み出した残骸として、枯れ木や枯れ葉を自然界の残したものとして並べているのだろうか。
『苔とコンクリ』にはこうキャプションがついている。

「ガラスに阻まれた苔むさないコンクリート」

ガラスの容器に格納されることで世界と切り離され、こんなにも近くにあるもの同士なのに接点を持たない。その距離を「苔むさない」という言葉で飾るのが何だかいいなと思った。

写真、写真、写真

 壁一面の写真たち。会場を右側から廻っていくと、後半にあたる。よく見ると、入って右手のオールドレンズのボケをテーマにしている作品を集めた壁とは違って、撮る題材がいろいろなものに分散している。(落合さんが度々twitterに載せている息子さんも見つけることができた…!)それにしても、写真の量。でもその圧に圧倒される感じはない。日常の中にあるシーンが切り取られているからだろうか、溶け込む感覚になった。一つひとつの写真に見入ったり、遠くから全体の印象を感じたり。視野をいろいろに移らせるのが面白い。

質量とは何か

そもそも今回、この展覧会が気になり始めたのはある言葉が引っかかったからだった。
twitterのTLに時おり流れてくる落合さんが気になり、フォローしたのは数ヶ月前のこと。ツイートを見たり記事を読んだりするうちに、“メディアアーティスト”という職業に不思議と引かれた。そしてこの展覧会を知ったのだ。

しかし、展覧会に関する落合さんのインタビューやレポートを見るうちに、どうしても分からない言葉があった。

落合さんの言う「質量」だ。
インタビューや展覧会のコンセプトの説明を見ても、いまいち理解できない。ただの重さではないことは分かるが、だからと言って何なのかは分からない。分からないからこそ、余計行きたくなったのであった。

『質量への憧憬』に行ってみて、「質量」が何なのか、明確には分かっていないかもしれない。でも、作品にふれるなかで、感覚的には分かってきたような気がしている。
「自然の中で、時間の経過が生み出した産物」なのかなと思う。それは、廃れ、埃にまみれた姿、錆、古さ。しかも、恐らくただ古ければ良いというわけではない。その物を見たときに、それが生きてきた時間や空間、歴史を感じることができる感覚が「質量」なのではないだろうか。それが、「愛しさ」にも似た感情になる。

帰ろうと出口に足を向けると、初めに見たあのガラスの障子と目が合った。首を傾げながら見入ったガラスの障子は、いま新しい見方を得た視界の中で少し穏やかなものに見えた。たくさんの作品にふれながら、いろいろなことを考えられる時間と空間を楽しめる展覧会だった。

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