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公園で自然との距離を縮める方法を編み出した

「自然欠乏症」この言葉を知ってから、「あ。私いま自然足りてないな。」が知覚できるようになった。

前回森林浴したのはいつだったっけ?2021年1月31日だ。やっぱりまる1ヶ月以上経っている。(今日は3月10日)

段々と自然を補給しないとやばくなる期間が短くなってきているのは、気のせいではないはず。日々のストレスが増しているからなのかしら。

昨日、「あああ〜!なんか気分が晴れない!室内に籠って息苦しい!森に行ってスッキリしたい!」と自然欠乏症を発症w でもまだ火曜日。スケジュールを確認して、最短の金曜日に有給休暇を申請。あと2日頑張ろう。

水曜日の朝、最近の日課にしている近くの公園のジョギング中。「あと2日我慢するのがしんどい。何かリラックスする方法はないかな」と思い、もう一歩離れた樹の多い公園へ。人の手で造園された自然はあまり好きではないけれど、背に腹は変えられない。

フィトンチッドの効能を求めて、直接触れる距離まで近づける樹を探した。(都心の公園は「植栽地立ち入り禁止!」になっている事が多くて容易に近寄れない)これまた人口だけど、川がちょろちょろ流れている近くに1本のいい感じの樹を発見。

10センチくらいの距離で「ちょっとウォーキングの休憩中なんです」「何気なく景色を見ているんです」風に佇んでみる。(大丈夫。何もおかしなことはしていない)

次に、樹に寄りかかってみる。頭の重さを預けて、後ろ手の手のひらで直接樹皮の感触を感じながら、目を閉じてみる。春の始まりの柔らかさを含んだ少しひんやりする風を感じた。川の水が岩に当たりながら流れていく音を聴いた。「あ〜気持ちいい」いい感じである。

しかし人間よく深くて、もっともっとを求めてしまう。「そういえばフィトンチッドってどれくらいの範囲まで飛んでるんだろう?」人目がないのを確認して、木肌に鼻を近づけてくんくん嗅いでみる。匂いはないけれど、強いていうならお日様の匂いを感じられるような気がする。(別に悪いことはしていないのだが、この時点で傍目に見てほんの少し変な人感が漂い始めていることは自覚しているw)

断続的にすぐ近くを年配の女性が往復ジョギングをしている足音と気配が段々と気になるようになってきた。次の拠点を探そう。

ちょっとした丘の上にいい感じのけやきの樹を発見した。また嗅いだり背中をくっつけてみる。(でもなんかもっと一体感を感じることはできないだろうか…)今度は正面から寄りかかってみる。(うん、いい感じだぞ。もう少し…)

最終的には抱きついてみた。「あ、これいい。」目一杯腕を伸ばしても手が届かない太さの立派な幹。何年かけてここまで大きくなったんだろう。今の時期葉っぱは全部落ちていて、枝も人口的に剪定されていたけれど、確実に今この瞬間も静かに生きている欅。ざらざらでこぼこだけどなんだか安心する樹皮。フィトンチッドがあるんだかないんだかは分からないけれど、とにかく思いきり抱きついてピタッとくっつかせていただいて、しばらく黙って目を閉じてじっとしていると、身体の芯の緊張感が緩んでくるのを感じた。

知らない人が見たら、相当辛い事があったのかと心配されるかもしれないが笑、名前も顔も存在も知らないどこかの誰かに気を遣って自分の心地よさを犠牲にして良いことはないので、気にしない。とはいえ、公共の空間だし、雑念やノイズがあると集中できないので、チラチラ人がいないことを確認しながら行った。
時間にして2〜3分あったかどうかくらいの短い時間。でも昨日より今朝より確実に精神が安定した気がする。

ランチはピクニック形式でまた公園に来ることにしよう。明日の朝も抱きつきに来よう。そして金曜日は早朝から出かけて、深い森に包まれよう。それを楽しみに今日も1日頑張る。

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