扇町ミュージアムスクエアの『月』

満月を見ると、心が泡立ったり、動悸が激しくなったり、あるいはわくわくしたり、多幸感でいっぱいになったり、かと思えば切なさで張り裂けそうになったり、そんなして喜怒哀楽の感情がない混ぜになってしまうのは、桑田佳祐さんのせいであり、ひいてはSさんという女優さんのせいでもある。

その頃、僕は大学4年生だったけれど、就職活動もしないでフラフラしていた。
自分が社会人になるということが何故だか想像出来ず、新劇の劇団の研究生になったりしていた。
研究所の授業で、バレエなんかもやらされた。
気合いの入った女子はレオタード的なものを着ていたが、僕はジャージを着て足元だけバレエシューズを履いて、「なんだかなぁ」と思いながらプリエなんかをしていた。

(今になって思えば、バレエの練習は武道的に見てもいい鍛錬だった。体幹もバランスも柔軟性も養うことが出来る。今なら真摯に教わりたい。必要とあらば、レオタードも着る)

就職活動もせずに演劇とやらにうつつを抜かしている息子に、父親から提案があった。

「トシヒロ、とりあえず警察だけでも受けとけ。警官になったら、お前の好きな実戦経験も積み放題やぞ」

尾崎豊みたいに「自分がどれだけ強いか知りたかった」十代の頃じゃあるまいし、もう実戦経験はいいよ、お父さん。
一応受けたがまったく勉強していなかったので、筆記試験は一切わからなかった。

試験の帰り道、スーツのまま扇町ミュージアムスクエアに寄った。
扇町ミュージアムスクエア(以下OMS)とは、かつて大阪のキタにあった、小さな劇場と小さな映画館と小さな雑貨屋さんが一緒になった、キッチュな建物である。
劇団⭐︎新感線と南河内万歳一座の稽古場もあった。
看板からは、恐竜の首が生えていた。

僕はこの空間が好きだった。
お目当ての映画や芝居が無い時でも、雑貨や次回公演のチラシを眺めていると、癒された。

僕は警官になりたかったわけではないけれど、あまりの試験の出来の悪さに凹んでいたため、癒しを求めにこの空間にやって来たのだった。

今夜は芝居があるようだ。
『ヒモのはなし』という芝居か。
つかこうへいさんの戯曲で、演出・主演は劇団「L」の女優のSさん。

当時(今もだけど)、僕はNさんという作家さんが大好きで、その方が主宰している劇団が、「L」だった。
「L」の舞台に立つSさんも大好きな女優さんだったので、当日券を買って観ることにした。

ストリッパー明美のヒモ、重は、明美に頼まれた買い物の釣り銭をごまかし、その1円玉をピカピカに磨いて貯金箱に貯めている。
いつの日か「少なくて甚だ恐縮なんだが、これで小料理屋でもやりねぇ」と言って、男として自立をする日を夢見ている。

強く引き込まれた。

僕がいちばん好きだったのは映画であり、舞台は半ば「勉強のため」に観ていたのだが、初めて舞台上の芝居に引き込まれた。

ラストシーン。
舞台上で客も取っていた明美は、脳梅毒に侵されてしまう。
もう意識の無い明美を抱き上げた重は、

「少なくって甚だ恐縮なんだが、これで小料理屋でもやりねぇ!!」

と叫ぶと、貯金箱のフタを開ける。

重の思いのこもった夥しい量の1円玉が、舞台いっぱいに降り注ぐ…。

ここで、桑田佳祐の名曲『月』が、大音量で鳴り響く…。

号泣した。

映画や舞台を観て、声を出して泣いたのなんて、後にも先にもこの時だけだ。
ハンカチを忘れたので、僕のスーツの袖は、涙と鼻水でガビガビになった。

僕も、この舞台の上で生きてみたいと思った。

その後、Sさんが演劇講座を開講していることを知り、そこの受講生になった。

今思えば、Sさんにお芝居を教わったあの頃は、かけがえの無い日々だった。
Sさんは、先生としても女性としても、チャーミングで本当に魅力的な方だったし、面白いヤツもたくさんいた。

そして、翌年のSさんのプロデュース公演での端役が、僕の初舞台となった。

場所は、OMSだった。

「その後の僕の活躍は、ご存知の通り」となれば良かったのだが、人生は甘くない。
大して活躍することもなく、今はただの格闘技が趣味のサラリーマンをしている。
あの頃のSさんの年も、とっくに追い抜いてしまった。

OMSも取り壊されてしまい、跡地には、なんの面白みも無いビルが建っている。

Sさんは、その後「L」を退団して、故郷の東京で女優活動をされている。
『この世界の片隅に』という映画で、久しぶりにSさんを観た(正確には聴いた)。

Sさんは、確かに戦時中の広島に立っていた。

今さら、また芝居をやろうとは思わないし、思ったりしてもいけないと思うが。
でも、今でも満月を見ると、条件反射で桑田佳祐の『月』を思い出し、『ヒモのはなし』を観て演劇を志したことを思い出し、芝居をやってた頃の楽しかったことと辛かったことをシャッフルで思い出し、喜怒哀楽がない混ぜになるのだ。

蒼い月が旅路を照らし
長い影に孤独を悟る
人の夢は浮かんで堕ちて
されど赤い陽はまた昇る

桑田佳祐『月』



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