恐怖政治的教育は合理的か

子供に対して怒ったり.時には暴力を使って思いどおりにしようとする大変残念な大人が存在します。

子供と向き合い.対話によって関係を築き、自分の思想に添ってもらうのは確かになかなか大変な事です。

怒りの感情をぶつける事で恐怖心を煽る方法は.それらの面倒事の一切を回避した形で子供をコントロールできると考えれば、あまり頭の出来が芳しくない大人が安易に取る手段として理解できなくもないです。

つまりそういった輩は彼らなりの正当性でもって説明ができる訳です。時間をかけて対話を通じて理解してもらうよりも、早く.そして確実に子供をコントロールすることができるので.恐怖心を煽るのは合理的である、と。。。

ここでこれを否定するためには道徳的観点からいくら物を言ってもそういった輩を納得させることはできません。

道徳的な善悪の区別が付くような人間であれば.そもそも子供に怒りの感情をぶつけるような事はしないはずです。

それに彼らのように脳みそに欠陥があるタイプは子供に対する態度を善悪ではなく.いかに楽で頭を使わないで済むかと言う基準で決めていたりします。

だって馬鹿だから。

つまり恐怖心でコントロールすることが子供にとってよくない事である、と言った論調ではなく自分自身にとって不利に働くと言う説明が必要になります。

では子供を恐怖心でコントロールすることを善悪ではなく合理性で考えていきます。ここで合理的であると判断されれば、晴れてそれらの行いは正しかったと言えるでしょう。

まず恐怖心で相手をコントロールしようとする際の必須条件として.相手と自分の間に圧倒的な実力の差がある.ということがあげられます。

つまり子供よりも確実に強い立場でなければ成立しない訳ですが、大抵の場合.大人の方が身体的に強いのでこれがまかり通っている訳です。

ではそれは永遠に続くのか?と言えば.そんな事はないですよね。

残念ながら自分はどんどん年老いて身体能力は下がっていき.子供は年々成長し.身体的にも精神的にも強くなっていきます。

つまり.現段階で恐怖政治的な教育がうまく機能していても.将来もそれが望める可能性はかなり低いのです。それどころか後々子供から逆襲を食らうかも知れないと言うリスクが着いてまわります。

とは言えそれらを防ぐ方法が無いわけではないです。己の肉体を磨き.いつまでも自分の子供より強い存在で居続ければ良いのです。

しかし一方は年々衰え.一方は年々成長していくことが生物学的に考えて当然である中.それに反して影響力を及ぼすだけの力を維持しようとするのは.どう考えても凄まじい日々の努力が不可欠になります。

つまり.何もしなくても子供よりも当然自分自身が強い時期(自分が若く.子供が幼い時期)に恐怖政治的な教育をする事で思考する面倒を避け.楽を手にするかわりに.将来は自身の肉体の衰退に抗う程の鍛練をする苦労が待っている。

反対に子供がまだ幼い時期から時間をかけて対話をし信頼関係を築き.それによって子供に理解してもらう努力をしていれば.自分に物理的な力が無くなってきたとしても我が子から逆襲にあったり、話を聞いてくれなくなったりする事はまず考えられません。

とすると.はたして恐怖政治的な教育は合理的であると言えるでしょうか?将来の自分自身が努力を惜しまないと信頼する以外に何もやりようがない選択肢を合理的とは呼ばない訳ですから.合理性における正当化も成り立たないと言えます。

つまり子供を怒りの感情でコントロールする事は道徳的にも合理的にも正しい判断ではないと言えるわけです。

僕は道徳に特別重きを置いている人間ではないので.時に善悪よりも合理性や趣味嗜好など.自分の利益を優先する場合も往々にしてあります。。。

ですがその上で恐怖政治的な教育をする事に魅力をあまり感じないと言うのが正直な感想です。

どうせ得することが何もないならわざわざ世間からの非難を浴びる行為をする意味がない、と考えるのが妥当なところではないかと思います。

それでも怒りをぶつけ.恐怖心を煽り続ける親がいるならば、虐待と親の頭の善し悪しには少なからず相関関係があると言わざるを得ないですよね。

以上です。

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