僕のラグビー人生(社会人編※ラグビーvol.3)

前回記事の続きとして、冒頭に釜石でのトライアウトについて書きますが、今回は主に『トライアウトを受けた後』について書きたいと思います。

本題に入る前に、キッカケがあって始めたnoteでの投稿。少しだけ反響があり、実際にコメントをいただき有り難いです。文章を書く身として、こうやって言葉をいただけるのは嬉しいです。ありがとうございます。今回も出来るだけ事実に基づいて書いていきます。あっ!よりわかりやすく説明するため、ラグビーvol.1で書いた数字の内容から少し変更しています。よろしくお願いします🙇‍♂️

①釜石でのトライアウト:釜石でのトライアウトを漕ぎ着け、改めて釜石側から連絡をいただき、指定された日に釜石に行きました。当時の僕は何日間向こうに入れてトライアウトを受けられるのか、何も分からなかったので急いでホテルサンルート釜石を1日分予約。向こうで移動手段がなく、お金もないので兄から借りた車(CUBE)のトランクに練習着とスパイクを詰め込んで、埼玉県を昼出発しました。(当時、弟の進学、父の職場の関係で家族は埼玉に住んでいた。)ここでいきなり洗礼を浴びます。笑 ホテルまで距離にして約530km、ノンストップで約6時間。何度か試合や合宿で釜石に行ったことがあったのですが、実際に車で行ったのは初めて。福島県の大きさに心が折れそうになり、日が沈んでからは道の暗さに怯えながらなんとか到着しました。今思えば良い経験です笑 その日はコンビニで夕食を済ませ翌日のトライアウトに備えゆっくり休みました。翌日、実際に現場でトライアウトを受けました。少し雨が降ってて涼しいなぁ。と感じたのを覚えています。もうかれこれ7月になっていましたトライアウトの内容はコンタクトの練習はなく、ボールゲームや実際のラグビーの動きをチェックする練習に混ぜてもらいました。すでにトライアウトも3回目。場慣れもしていたし、身体もそこそこ動き、自分としても悪くない内容でした。練習後主務の方から声をかけられ、ホテルを用意したので明日も練習に来てくれ。と言われたのです。翌日も練習に参加し、練習後また主務から声をかけられ、寮の一室を用意したから金曜日まで後三日間練習に参加してほしいと言われました。この時点でもしかしたらチャンスがあるかもと感じました。そして無事に金曜日まで練習をして、最後にGMさんから何かあれば連絡しますと告げられ、釜石を後にしました。余談になりますが、トライアウトの期間中、当時シーウェイブスのトレーナーであった長田剛さん(現、釜石市役所職員)に本当にサポートしていただき、また彼の釜石愛に感銘を受けました。釜石を出発する夜に弁当を持たせてくれて、、、夜中の長者原SAでうるうるしながら食べました。タケさんがいなければ釜石でプレーすることは出来なかったと思います。本当にありがとうございました。下記は釜石でのラグビーW杯前の長田剛さんの記事です。

②練習生から契約に至るまで:釜石から帰路に着き、数日たっても連絡は来ませんでした。いよいよクラブチームでプレーすることを選ぶか、本当にどうするか迷っていた時に一本の電話が来ました。練習生として北海道合宿(北見・網走)に来てほしい。そこで試合に出場して欲しいとのことでした。急いで準備して、北海道に飛びました。後から聞いた話ですが、実はここ最近の練習で怪我人が出ていたようです。僕はNTTドコモとホンダとの練習試合に練習生として出場しました。通な人は知っているかもしれませんが、練習試合で配られるメンバー表に、ごくたまに練習生として記載されていたりするのですが、まさに僕がそうでした。やっとここまで来て掴みつつあるチャンス、必死でプレーしました。その時の状況としてはベストなプレーが出来たと思いました。実はトライアウトとして練習に参加した時に、釜石シーウェイブスのことを多様性溢れる良いチームだなと感じていました。また素晴らしい選手が多く、個性や一癖溢れる選手達がキャプテンの須田康夫さん中心にまとまっていました。(康夫さんは今年からシーウェイブスのコーチに!)それもそのはず、この年、釜石シーウェイブスは初めてトップチャレンジ2を勝ち抜き、トップチャレンジ1を戦い、クボタスピアーズとの入れ替え戦に進むのです。僕はBKなのでトライアウトの時も、練習生の時も、センターにいたセイララ・マプスア選手に大変助けられました。彼はとにかくすごくて、攻守共に彼のプレーについていけば活躍できました。実際のトライアウトや練習生としての期間は短く、そこで結果を出さなければなりません。なので、一つの方法として自分をアピールしながらスペシャルな選手に助けてもらう。これは本当に大事だ思います。当時、言語化してここまで考えていたわけではないですが、振り返って見るとそういうことだったなと感じています。実はセンターでちゃんとプレーしたのはこの練習生の時が初めてで、僕としてはまた新たな自分の可能性に気付けるキッカケにもなりました。合宿を終えてまた帰路に着きました。翌日また電話が鳴って、ついに『契約します。』と連絡をもらえたのです。報われました。もう8月になろうとしていました。

③契約後:ここまで読んでいただいて、もしかしたら読者の方の中に本当に良かった!いよいよ契約をしてプロ生活のスタートだ👏と、思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、まだ障壁が有りました。それはリリースレター問題です。栗田側がリリースレターを出さないという話でした。釜石としてもリリースレターがないと契約できません。もう個人で話し合う事は難しく、最終的に釜石側から桜庭さん、GMさんが話をしてくれて、条件付きでリリースレターを提出してくれました。条件については書けませんが、悲しい内容でした。こういったことを書くと、栗田というチームが〜みたいな話になりがちですが、それは違います。栗田の社業とラグビーを両立したい価値観は良いと思うし、良い選手もいるし、引退後も社業にしっかり入っていけるし、僕としては今でも自分が過去にプレーした大切なチームの一つです。ただ現実としてこういったことがあったのは事実。退職する前に、会社の中で決定権を持つ方と食事に行って、その方の口からはっきりと聞きました。栗田は現段階で特別な強化はないと。このスタイルでトップリーグを目指すと。僕はその言葉を聞けてスッキリしたのを覚えています。それなら自分が去ればいいと。そう思っていただけなのに、なぜか話ががややこしくなっていました。当時のトップイーストの選手登録は8/31まで。期限を過ぎたら登録が出来ず、プレーすることが出来ません。結局8/31に栗田から条件付きのリリースレターが送られ、無事に選手登録、釜石シーウェイブスと契約することが出来ました。ただリリースレターが届かない期間、契約が出来なかったので練習生としての期間が延び、給料1〜2か月分を受け取ることが出来ませんでした。初めてプロ選手として給料をいただけたのは、トップイーストのシーズンが始まってからの9月の末でした。僕のような形になれば、本当に苦しくなります。現在はリリースレターが無くなったと聞いていますが、無かったとしても出来るだけ応援される形で去ることに越した事はないと思います

こうして無事に契約をして、プロ選手としての人生を歩み始めることが出来ました。プロ選手としての人生については、また要望があれば、いつの日か書こうと思います。

全3回に分けて、こういった形で書かせていただきました。人生選択編を入れたら4回。最後の方はアドバイスというより、自分のストーリーはこうだった。という形になってしまいました笑 

これから社会人でラグビーを続けることを目指す選手達にもそれぞれの想いがあり、それぞれのストーリーがあると思います。これといった才能が無かった僕もここまで来ることが出来て文章にできました。いつかこの文章を読んだ誰かがチャンスを掴み、またその方が自分のストーリーを投稿して、読ませていただく日を楽しみにしながら締めたいと思います。

最後になりましたが、これからチャレンジする選手達を心から応援しています!『僕のラグビー人生』を読んで下さった皆様ありがとうございました😊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?