脱殻

 マトリョーシカ。名前はよく耳にするけれど、実物を目にしたことは、ない。


 人形の器を開けると、中から先程と似たような人形が現れる。その人形を開けるとまたもや人形が。初めてそれを知ったとき、なんともいわれぬ面白さを、愉快さを抱く。想像の枠の外の事象。開けても開けても同じ顔。そして結局、なぜ人形を重ねているかということは誰にも分からない。なぜ個としてそれぞれが現出しないのか。知る者はいない。こういった不可思議に興味をそそられる。微笑む。愉しくなる。


 傍から見たら、そうだろう。外から見たら。


 もしも貴方がマトリョーシカの「中の側」の人間であったら。外の世界に憧れ、目の前の壁の器を打ち破り続けても尚同じ暗闇が迎える。外から見れば色彩や表情の違いが判る人形でも、内から見れば只の黒。外から見れば重なる人形の数はある程度予測可能だが、内からはその予測に際限が存在しない。どこまでも続くかもしれないどこまでも暗闇な情景に果たして希望的観測を抱くことができるか。


 しかしこれは人生そのものである。あらゆる事象は器との衝突から生まれ、あらゆる感情はその摩擦の熱である。器を、眼前の位相を、破り得るか否かは汝の裁量である。破ることに価値を見出すか否かも当人に依る。だが破らねばならない。無数の位相の内に生を享有した時点で、質量と初速度を持った時点で永遠に衝突は避け得ない。故に人は抗う、その運命に。


 もしかしたら、貴方自身もその器の一つかもしれない。無限大までその嵩を縮めたn次元からの収束点の一つかもしれない。であれば、目の前の器を破るための切欠は自身にある。反抗のためのプロトタイプは零距離にある。


 己を利用するのは己である。さあ、力強く、無限の位相に剋て。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?