園芸のような教育 読書録その1
せっかくだから読んだ本の記録を付け始めようと思います。
1冊目は,石川初(いしかわはじめ)さんの『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い 歩くこと、見つけること、育てること』について。
1.この本との出会い
愛聴しているポッドキャスト『コクヨ野外学習センター』の『新・雑貨論』のシーズンⅡ・第6回で石川さんがお話しされているのを聴いて「こりゃこの人の本を読まねば」と思ったのがきっかけです。このポッドキャスト自体もかなり興味深く,前編も後編も20回くらいは聴いたんじゃないかな…(笑)
2.本の内容
慶応義塾大学でランドスケープアーキテクトをご専門に研究されている石川さんによって,ご自身の研究や体験に惹きつけながらランドスケープ的な思考法が示されています。ここで言う「ランドスケープ的であること」について,本書中で次のような説明があります。
僕はこの本を,教育というコンテクストに落とし込みながら読みました。
教育とはまさに「固いものをきっちりと仕掛けたうえで園芸的ままならなさを受け入れる」営みであるはずだし,あるべきであると,僕は思っているからです。一方で現実行われている学校教育は,固いものをきっちりと仕掛けたうえで,その仕掛けにきっちり乗ること自体が目的化しているような気がします。哲学者(?)のイヴァン・イリイチは『脱学校の社会』のなかで「学校」というものを ”特定の年齢層を対象として,履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する,教師に関連のある過程” として定義しました。
学校という場は,できるだけ「ままならなさ」を排除しようとしてはいないでしょうか。学校教育は,園芸ではなく工業的になってしまってはいるのではないでしょうか。
石川さんが語るランドスケープ論には,もっとのびのびとした教育へと向かうためのヒントがあるような気がしています。
3.読んで思ったこと・考えたこと
3-1.コンクリート造りの教室
コロナ禍前後で,教育現場で口にされる頻度が激増した言葉のひとつに「学力保障」という言葉があるのではないかと思います(少なくとも僕の身の回りではそうです)。濃厚接触者になったり隔離期間だったり,不可抗力により学校へ投稿できなくなった生徒の学力をどうやって担保するのか,ということが現場でも話題に上がります。
でも,この問題への現場の対応策は意外とあっさりしたもので,「オンライン授業」をとりあえずやっとけ,というものです。ZOOM や Google Meet,Microsoft Teams などのオンラインミーティング用のツールで,授業の様子を中継すればいいじゃないという対応を取ったところが多いのではないでしょうか。
そもそも学校という場は "特定の年齢層を対象として,履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する,教師に関連のある過程" なのでした。「履修すること(=授業に出席すること)」が前提とされた「制度」なのであり,生徒たちに何かを学ばせる際に「授業をすること」以外の選択肢が検討されることは少ない気がします。
僕には,教室の壁がコンクリート擁壁に見えます。
3-2.主体性の評価
最近,うちの職場で「ノーチャイム授業」というのが始まりました。授業の開始・終了時などにチャイムを鳴らさない,という取り組みのことですが,その目的は「生徒の自主性・主体性を育てる」です。導入している学校はままあります。
個人的には,なにやってんだろう,と思うんですが。
「自主性・主体性」と言いつつ大学のように履修科目を自分で決めるられるわけでは当然なく,要は「時間を自分で守りなさい」と言っているだけです。主体性ってそういうことだっけ?
とはいえ「俺はここを通りたいんだ!」といって道路ではないところを突っ切ったり侵入したりすると,場合によっては捕まってしまいます。自主性や主体性をうたいつつも,そこには「でもこの制限内でやれよ」という留保が付きまとうのが学校という場。これからは逃れられないのでしょうか。
そういえば今年度から,高校では「学びに向かう力、人間性等」を評価して成績を付けるようになりました。われわれだって「なんでこんなひでぇことやるんだろう」と思っているんですが,先述のとおり,学校はコンクリート擁壁でできているわけです。現場の判断で修復できないことがたくさんあります。
3-3.微地形にアダプトした授業
授業中の教室の雰囲気は毎回異なります。同じ内容の授業でも,クラスが異なると「手ごたえ」がまったく違う。同じクラスの授業でも,日によって「雰囲気」が異なる。3,40人もの人間がひとところに集められているので,様子が毎回異なるのは当たり前です。
ですが,果たして教師はどれだけこの「僅かな雰囲気の違い」に合わせて授業を行っているんだろうと,ふと思うことがあります。「なんか様子が違うな」と思いながらも,毎回同じように授業をしてしまってはいないだろうか。もしそうなら,授業を動画で配信しているのと何ら変わらないのではないか。
微地形に敏感な授業をすることはできないだろうか。その場の雰囲気に合わせて,大胆に授業内容を変更し,その日その瞬間における最善の授業を毎度毎度探っていくことはできないのだろうか。アダプティブな授業を目指すことはできないのだろうか。
そう考えながら,僕は日々仕事をしています。
3ー4.この橋わたるべし
最近学校で大切にされているのは「わかりやすい授業」です。生徒に適切な「問い」を投げかけ,それが解決するようにうまく誘導するのがよい授業であると言われています。
そういうことだっけ?と思っちゃうんだけども。
「学校」がなぜできたのかについて考えてみると,なにかしらを学ぶ場としてできたはずです。極論,どんな方法であれきちんと学ぶことさえできれば,学校という場の目的は達成されるはずなんです。
ですが,(繰り返しになりますが)現行の学校制度は授業を受けることが前提となった制度です。川を挟んでこちら岸からあちら岸の目的地に向かうときに「〇月△日◇時にこの橋を渡ってあちら側に向かえよ」と言われている状態です。本当は,いつ向こう岸に渡ってもいいはずだし,泳いで渡ってもいいはずなのに。ですがこれは,制度なのでなかなかどうにもなりません。
こういうことを言うと,同業者からは「だったら通信制に行けばいいじゃん」だとか「学校に行かなくても高卒認定試験とかあるじゃん」と笑われることが多いです。どう考えてもそういうことではないでしょ…。
3-5.造園的教育,園芸的教育
もはや完全に教育論。
3ー6.雑草はスキマから生えてくる
あるベテランの教員がいました。理屈を丁寧に説明し,問題の解き方も時間をかけて解説をする人でした。
端的に言えば,授業が退屈なのでした。
その授業を受けている生徒に,授業中はどんな感じなのか聞いてみたことがあります。その生徒は「説明の仕方が自分には合わなくて。寝ちゃうこともけっこうあります」と言っていました。授業がわからなくて大丈夫なのかと聞くと「個別に質問しに行ったら,一対一の説明はわかりやすいんです。だからなんとかなってます」と言っていました。
なるほど,そういうもんなのか。
3-4では,僕は画一化された授業が生徒の学習をむしろ妨げることがあるのではないかという不安について書きました。でも,もしかしたらそれは不要な心配なのかもしれません。生徒たちは,大人の意図や心配をよそに,スキマを見つけてそこで勝手に成長を続けるのです。こちらの期待を裏切り,想像の範疇に飛び出し,思わぬ場所に根付いていく。そんな生徒の成長の仕方を歓迎し愉しむこと。それが園芸的教育に必要な姿勢なのだとすれば,こんな学校教育下ではダメだ,と思い過ぎることも,生徒を信じることができていないことの証なのかもしれません。
少々のことなら自分らでなんとかするだろう。そう信頼することが,きっと園芸論的教育の入り口なのです。
とはいえ「どう考えてもおかしいだろ」ことはあるわけで,それについては絶えず考え続けていきたいと思います。
以上,おわり!
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