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園芸のような教育 読書録その1

 せっかくだから読んだ本の記録を付け始めようと思います。

 1冊目は,石川初(いしかわはじめ)さんの思考としてのランドスケープ 地上学への誘い 歩くこと、見つけること、育てることについて。

1.この本との出会い

 愛聴しているポッドキャスト『コクヨ野外学習センター』の『新・雑貨論』のシーズンⅡ・第6回で石川さんがお話しされているのを聴いて「こりゃこの人の本を読まねば」と思ったのがきっかけです。このポッドキャスト自体もかなり興味深く,前編も後編も20回くらいは聴いたんじゃないかな…(笑)

2.本の内容

目次
1 FAB-G
2 公園の夏
3 農耕の解像度
4 地形と移動
5 ベンチの攻撃
6 土木への接近
7 終わらない庭仕事
8 ランドスケープの思考

 慶応義塾大学でランドスケープアーキテクトをご専門に研究されている石川さんによって,ご自身の研究や体験に惹きつけながらランドスケープ的な思考法が示されています。ここで言う「ランドスケープ的であること」について,本書中で次のような説明があります。

ランドスケープ的であるとは,固いものをきっちりと仕掛けたうえで園芸的ままならなさを受け入れることである。また,やり続ける手入れを引き受けたうえで,できるだけ楽な手入れの方法を探りつづけることである。植物の手入れを楽にするためには,花壇という限定的な範囲の状態を,周囲の環境も視野に入れたより広域の状態に対して適合させてゆくことが重要である。あなたはそのために,環境と植物の性質と人の行為を丁寧に読み取って折り合いを探り,最適化を図る必要がある。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.250

 僕はこの本を,教育というコンテクストに落とし込みながら読みました。

 教育とはまさに「固いものをきっちりと仕掛けたうえで園芸的ままならなさを受け入れる」営みであるはずだし,あるべきであると,僕は思っているからです。一方で現実行われている学校教育は,固いものをきっちりと仕掛けたうえで,その仕掛けにきっちり乗ること自体が目的化しているような気がします。哲学者(?)のイヴァン・イリイチは『脱学校の社会』のなかで「学校」というものを ”特定の年齢層を対象として,履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する,教師に関連のある過程” として定義しました。

 学校という場は,できるだけ「ままならなさ」を排除しようとしてはいないでしょうか。学校教育は,園芸ではなく工業的になってしまってはいるのではないでしょうか。
 石川さんが語るランドスケープ論には,もっとのびのびとした教育へと向かうためのヒントがあるような気がしています。

3.読んで思ったこと・考えたこと

3-1.コンクリート造りの教室

コンクリート擁壁の表面は一様に均質である。これは,近代の土木構造物が,対象となる土地の条件を幅広く解釈したうえで,性能的に余裕のある「標準仕様」で設計されるためだ。[…]
 コンクリート擁壁はいわば社会的な施設である。[…] そのため,部分的に壊れたコンクリート擁壁を,現場の判断で修復することは困難である。コンクリート擁壁は,施工する側も享受する側も,それがなにごとも変わらずに長く残ってほしいと考えている。コンクリート擁壁は現場の勝手な介入を排除するデザインである。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.25-26

 コロナ禍前後で,教育現場で口にされる頻度が激増した言葉のひとつに「学力保障」という言葉があるのではないかと思います(少なくとも僕の身の回りではそうです)。濃厚接触者になったり隔離期間だったり,不可抗力により学校へ投稿できなくなった生徒の学力をどうやって担保するのか,ということが現場でも話題に上がります。

 でも,この問題への現場の対応策は意外とあっさりしたもので,「オンライン授業」をとりあえずやっとけ,というものです。ZOOM や Google Meet,Microsoft Teams などのオンラインミーティング用のツールで,授業の様子を中継すればいいじゃないという対応を取ったところが多いのではないでしょうか。

 そもそも学校という場は "特定の年齢層を対象として,履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する,教師に関連のある過程" なのでした。「履修すること(=授業に出席すること)」が前提とされた「制度」なのであり,生徒たちに何かを学ばせる際に「授業をすること」以外の選択肢が検討されることは少ない気がします。

 僕には,教室の壁がコンクリート擁壁に見えます。


3-2.主体性の評価

地上は個人や団体や行政に所有された土地の面が入り組み、私たちはそのように許可された場合を除いては他人が所有する土地面に立ち入らないという原則に沿って生活している。あらためて地図を眺め、自分の行動を思い起こしてみるとよくわかるが、街で私たちは、誰かに所有された土地と土地との隙間を縫うようにして移動している。それはつまり道路である。道路は、地点同士をつなぐ 「路線」として考えることもできるが、実際に街に身をおいて眺めたとき、道路はほとんど、私有地と私有地の「隙間」のようにあらわれている。現行の法規では、 接道していない敷地には建築物を建てることが許されていない。つまり道路に接していることが街に参加することなのである。道路は街で私たちが自由に行き来することを許された少ない 「面」である。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.52

 最近,うちの職場で「ノーチャイム授業」というのが始まりました。授業の開始・終了時などにチャイムを鳴らさない,という取り組みのことですが,その目的は「生徒の自主性・主体性を育てる」です。導入している学校はままあります。

 個人的には,なにやってんだろう,と思うんですが。

 「自主性・主体性」と言いつつ大学のように履修科目を自分で決めるられるわけでは当然なく,要は「時間を自分で守りなさい」と言っているだけです。主体性ってそういうことだっけ?

 とはいえ「俺はここを通りたいんだ!」といって道路ではないところを突っ切ったり侵入したりすると,場合によっては捕まってしまいます。自主性や主体性をうたいつつも,そこには「でもこの制限内でやれよ」という留保が付きまとうのが学校という場。これからは逃れられないのでしょうか。

 そういえば今年度から,高校では「学びに向かう力、人間性等」を評価して成績を付けるようになりました。われわれだって「なんでこんなひでぇことやるんだろう」と思っているんですが,先述のとおり,学校はコンクリート擁壁でできているわけです。現場の判断で修復できないことがたくさんあります。


3-3.微地形にアダプトした授業

たとえ人工物で覆われた都市にあっても,私たちの足元には地形が豊かにある。注意深く平坦につくられた舗装道路でも,雨水排水のための微かな勾配がつけられている。多くの車道では,排水は車道の両端に集められるように設えられている。つまり道路は中心線に尾根をもった地形である。[…] 雨の日はこのような都市の微地形が顕在化され,アスファルト地形の散歩を楽しむことができる。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.109

 授業中の教室の雰囲気は毎回異なります。同じ内容の授業でも,クラスが異なると「手ごたえ」がまったく違う。同じクラスの授業でも,日によって「雰囲気」が異なる。3,40人もの人間がひとところに集められているので,様子が毎回異なるのは当たり前です。

 ですが,果たして教師はどれだけこの「僅かな雰囲気の違い」に合わせて授業を行っているんだろうと,ふと思うことがあります。「なんか様子が違うな」と思いながらも,毎回同じように授業をしてしまってはいないだろうか。もしそうなら,授業を動画で配信しているのと何ら変わらないのではないか。

 微地形に敏感な授業をすることはできないだろうか。その場の雰囲気に合わせて,大胆に授業内容を変更し,その日その瞬間における最善の授業を毎度毎度探っていくことはできないのだろうか。アダプティブな授業を目指すことはできないのだろうか。

 そう考えながら,僕は日々仕事をしています。


3ー4.この橋わたるべし

道路や鉄道はその地面の多様性を弱めて,移動に伴う変化を最小にするために設けられたものだ。道路は,起点と終点の地面の状態が同じであることを目指す施設である。最初から最後まで地面の状態を同等に保つことが高速道路の「使命」である。そのため,鉄道や高速道路は,土地の起伏や既存の土地の利用状況などといった,個々に異なる地面の多様な状態とは決別してつくられる。[…] 河川や海峡をまたぐような巨大な橋は,それ自体が強い輪郭をもっていて,ランドマークとなっていることがあるが,その本質はあくまでも「道路を滑らかに通すためのエンジニアリング」である。橋は,その場所の既存の条件が道路の理想から外れているほどに強大な姿になる。橋の姿は,もともと道路を通すことが困難であった場所を技術によって乗り越えた様子である。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.165-166

 最近学校で大切にされているのは「わかりやすい授業」です。生徒に適切な「問い」を投げかけ,それが解決するようにうまく誘導するのがよい授業であると言われています。

 そういうことだっけ?と思っちゃうんだけども。

 「学校」がなぜできたのかについて考えてみると,なにかしらを学ぶ場としてできたはずです。極論,どんな方法であれきちんと学ぶことさえできれば,学校という場の目的は達成されるはずなんです。
 ですが,(繰り返しになりますが)現行の学校制度は授業を受けることが前提となった制度です。川を挟んでこちら岸からあちら岸の目的地に向かうときに「〇月△日◇時にこの橋を渡ってあちら側に向かえよ」と言われている状態です。本当は,いつ向こう岸に渡ってもいいはずだし,泳いで渡ってもいいはずなのに。ですがこれは,制度なのでなかなかどうにもなりません。

 こういうことを言うと,同業者からは「だったら通信制に行けばいいじゃん」だとか「学校に行かなくても高卒認定試験とかあるじゃん」と笑われることが多いです。どう考えてもそういうことではないでしょ…。


3-5.造園的教育,園芸的教育

「造園」においては「正しい種類の植物」という規範が示されている […] 造園で使われる植物は規格品として生産され,量的な要求に従って配置される財である。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.206

園芸は,造園が依拠するような,より広域の「正しさ」からは自由であり,その場所の局所的な気候や環境に直接依拠している。[…] なによりも大局的なビジョンや正しい究極の風景といったものに,園芸は無縁である。園芸は個別の植木鉢ごとにその生育環境の適合性がテストされ,判断されて,位置や種類が決められている。園芸の風景は個別の細かい判断が積み重なったものである。これは,「あるべき自然」を目指して,あえてそのラインナップから植物種を選択して植える造園とは,その態度において対照的である。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.210

 もはや完全に教育論。


3ー6.雑草はスキマから生えてくる

だが、そうやって苦労して見つけてきた珍しい植物は、まあたいてい枯れるのである。気候が合っていない、私たちが正しい世話の仕方を知らないなど、枯れる理由はいくつもある。そしてうかうかしていると、枯れた後に雑草が生えてくる。そうやって生えてきた雑草は、ろくに手をかけずとも丈夫に健康に素早く成長してしまう。 雑草とされている植物にもそれなりに麗しい様子のものもあるため、いっそ道端に生えている雑草を庭に植えてみようと、カゼグサやチカラシバやキクイ モを掘りとってきて植えてみたこともあった。それらが根付いた途端にものすごい勢いで繁茂し増殖し、始末に負えなくなったこともあった。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.216

 あるベテランの教員がいました。理屈を丁寧に説明し,問題の解き方も時間をかけて解説をする人でした。

 端的に言えば,授業が退屈なのでした。

 その授業を受けている生徒に,授業中はどんな感じなのか聞いてみたことがあります。その生徒は「説明の仕方が自分には合わなくて。寝ちゃうこともけっこうあります」と言っていました。授業がわからなくて大丈夫なのかと聞くと「個別に質問しに行ったら,一対一の説明はわかりやすいんです。だからなんとかなってます」と言っていました。

 なるほど,そういうもんなのか。

 3-4では,僕は画一化された授業が生徒の学習をむしろ妨げることがあるのではないかという不安について書きました。でも,もしかしたらそれは不要な心配なのかもしれません。生徒たちは,大人の意図や心配をよそに,スキマを見つけてそこで勝手に成長を続けるのです。こちらの期待を裏切り,想像の範疇に飛び出し,思わぬ場所に根付いていく。そんな生徒の成長の仕方を歓迎し愉しむこと。それが園芸的教育に必要な姿勢なのだとすれば,こんな学校教育下ではダメだ,と思い過ぎることも,生徒を信じることができていないことの証なのかもしれません。

造園は時間がかかる。例えばどれほど立派な樹形の木を植えても、植えたばかりの木はそこに根付いていない。たいていの造園は、竣工時の様子は植物が貧弱で全体に疎らな風景である。建設の完成は造園にとってはより落ち着いた成熟した風景への「スタート」のようなものだ 。プロジェクトにおける「建設」のスケジュールと造園が目指すところは必ず、ずれている。[…]また造園は、すべてを計画し建設することはできない。造園はつくるというよりも、成ることへ設えるとでもいうべきものだ。道路を舗装し、壁を立て、排水溝を回しても、造園は必ず 「その他の場所」を含んでいる。そこは植物の発芽や成長や人の維持管理に期待して任せるしかない。成ってくる風景は、しばしば計画時の予想とはずれている。造園はつねに「少し予想外」である。
 そして、こうしたままならなさが風景をつくっていることが次第にわかってくる。 造園は手段であり、仕掛けである。

石川初『思考としてのランドスケープ』P.244-245

 少々のことなら自分らでなんとかするだろう。そう信頼することが,きっと園芸論的教育の入り口なのです。

 とはいえ「どう考えてもおかしいだろ」ことはあるわけで,それについては絶えず考え続けていきたいと思います。

 以上,おわり!

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