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アートが嫌いだった僕が”アート関連”のイベントを企画するまでの話3/3 完結編

みなさん。
こんにちは。谷田です。

全世界の全ての人と、愛と平和をどうやったら分かち合えるかと考え続けることに人生を捧げてきました。(7割嘘。)

先日、情報解禁させて頂きました弊社が企画させて頂きました落合陽一・新宮晋の世紀の対談イベント『芸術を通じた人類の未来構想』に参加申し込みしていただきましたみなさん。本当にありがとうございます。

昨日、無事にリーフレットとポスターの配布を開始しましたので、これからまだまだ広まっていってくれることで、お申し込みが増えることを願い、護摩行でも行おうかと考えています。

まだご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんので、引き続き、友人・知人・親戚・町内会・同級生・元彼・元彼女など幅広くインフォメーションを頂けますと大変助かります。よろしくお願い致します!


さて、相変わらず箸にも棒にもかからない私のnoteですが、安心できない、油断も許されない絶望の淵から、藁をもすがる想いに賭けまして、私がこのイベントをやろうと思ったことについて3回に分けて書いてまいりましたこのシリーズもいよいよ本日が3回目、完結編です。

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日程も決まった!場所も決まった!じゃ、何について対談する?

天文学的数字の確率を超えて、日程は3月1日(日)14時〜
場所は兵庫県三田市総合文化センター 郷の音ホール 大ホール(収容人数947名)に決まった。

しかし、肝心の対談テーマが決まっていない。


一体、どんなテーマで対談すれば、たくさんの人に興味を持ってもらい、楽しんでもらうことが出来るか。ここが、企画家 谷田光晴としての腕の見せ所になるのだが、あまりにも落合陽一・新宮晋のスケールがデカすぎて、スコープが絞りにくい。また、私自身が共通性というものを見出せはしたが、どうその共通性を生かしたトークテーマを設定すればその共通性を皆さんに感じ取ってもらえるのか。

2人のアーティストが対立構造になる対談では、全く意味がない。
かといって、核心に触れない当たり前のテーマであれば、芸術やテクノロジーに目の肥えたお客さんの要求に応えることができない。

私は、大いに悩みました。
この大きすぎる問題に対し、日程はどんどん迫ってくる。
やばい。はよ決めんとリリースも出せない。
なにせ、リリースしなければ、場所は兵庫県の三田(さんだ)。
京阪神から来場いただく皆さんのことを考えると、ご予定もあるだろう。
早めにお知らせしないと、「行きたかったのに、行けなかった!」などのSNSの投稿が目に浮かぶ。
このままだと、私がイベント失敗のスケープゴートになってしまう!

不安に眠れぬ日々を過ごした。
我が社の社員達の「社長、はよしてや!」のプレッシャーに悩む日々。
あまりのプレッシャーに、酒に溺れる日々を過ごしました。
嵩む飲み屋の領収書。迫り来る開催日時。社員からの冷やかな視線。
出口の見えない悩みの日々。当然会社への足取りも重くなりました。

しかし、その時歴史が動いた。

とにかくデカ過ぎる2人のスケール。
このスケールに合うようなスケールのデカイ言葉を探そう!
苦し紛れのラッキーパンチが炸裂しました。

『宇宙』『銀河系』『地球』『人類』『未来』

宇宙・銀河系などの言葉は、デカ過ぎた。
『地球』は、エコなイメージに振られてしまう。

よって選定された言葉は『人類』『未来』の2つ。

『人類の未来』
いいぞ!とてつもなくデカい。いい感じだ。
その時、私の厨二センサーがビシビシと音をたてて反応した。
『未来構想』
いいぞ!『構想』ってなんか凄く「グッ」とくる。

『人類の未来構想』
この時、私の頭の中に閃光が走った。

落合陽一と新宮晋が芸術を通じて、『人類の未来構想』を語り合う。
ちょっと『』の位置を調整したところ「グググググッ」とキタ。

ここに、今回のテーマ『芸術を通じた人類の未来構想』が爆誕。

『風や水で動く彫刻で知られる世界的な造形作家 新宮晋氏の活動内容や作品テーマ、制作プロセスなどについて、 「デジタルネイチャー」を提唱する落合陽一氏が問いかけ、その根底に流れる思想と哲学を探ります。新宮氏と落合氏の両者の共通点とは、一体なにか。それぞれの世界観に触れながら、アーティストとして、自然環境や未来社会への関わり方を構想します。』

さらっと書けた。

一時期は、「機械の身体が欲しい」と願ったこともあったが、
俺は俺でよかったぜ!


天才か!父さん!母さん!産んでくれてありがとう!


アートが嫌いだった僕。アートが何か解らなかった僕。

私の悪い癖だ。
タイトルからの伏線の回収が全くできていないじゃないか。

今からでもタイトル変えるか。
それとも、何事もなかったように違う投稿を入れて時間を稼ぐか。

いや、だめだ。
何としても、全3回で書き切るという事を明言したわけだから、今回の投稿で伏線を回収し切らねばなりません。

だから、真正面からこのタイトルに向き合い、アートが嫌いだった私が、なぜアートが好きになり、イベントを企画するようになったのかをここで書いてしまいます。

私は、元々アートが嫌いだったわけじゃない。

大概の人間は、初めから嫌いなものなんて無い。嫌いになるには理由というものが多かれ少なかれ必要であるものだ。

元々私がVJ上がりの映像作家だったことは、過去のnoteに書いているが、私もアーティストになりたかった類の人間である。もとい、アーティストと呼ばれたい!と思っていた類の人間と言う方が正しい。

自分で言うのもアレだが、アレとか、コレとかそれなりの作品を発表してきた。それなりに自負もある。

今ではそんなこともないが、私がアート嫌いになった理由。これは『かつての私』が『アート嫌悪症』を拗らせていったことに大きな原因がある。

当時(20-25歳)の私の腐った性根の根底にあった人生の価値基準に、『なんか、かっこいいじゃん。』を優先するというものがあった。
もっと言うと、より軽薄な「カッコいいと言われたい!」だ。

人の理解の外側に自ら身を置き、アナーキーな事を言うことにカタルシスを覚え、社会や、一般的な意見から一線を隔てた所に身を置き、いわば自己満足による究極の肯定感を味わえる存在が、若き日の私にとってのアーティストという存在だったのだ。

私の勝手な思い込みだったと、今は本当に当時の所業の数々に反省し、日々写経に勤しんでいる。(嘘)

『アーティストになりたい』<『アーティストと呼ばれたい』
アーティスト羨望症
を発症し、私はこれを拗らせていった。

ある程度(26-28歳頃)までは、表面だけそうしていればそれでよかったのだが、このアートと呼ばれるものには「本物」と「偽物」の違いが確固たる壁として、そこに存在すると認識するようになった。当然だが、私は、「偽物」の方だった。

その線を越えることができないことに苛立ちを覚え、私は「アーティストと呼ばれてかっこいい!」と言われる人生を送ることを諦めた。(29歳)

そんな「偽物」な状態で、解ったような顔をして生きる事自体がめちゃんこ『最高にカッコ悪い』と思ったからだ。

カッコ悪い事を散々してきた私が、自らが認識している『最高にカッコ悪い』事をして生きていくことを容認することができなかったのだ。

そのベースにあったこと。
それは「アートが何か解らない」と言うことだった。

何か解らない、解りたいのに解れないのである。
解らないことをやってるのだから、「偽物」なのは当然なのだ。

数百じゃ効かない人数の『それっぽい人』に聞いたのだが、「アートってそういうもんだから」などと言われても、到底納得はできなかったのだ。

何か、伝えようとしてくれる人も沢山いた。しかし、『アーティスト羨望症』拗らせてしまった私の症状は悪化し、『アート嫌悪症』へと病質が変わってしまった。

いつしか、私はこの解らない「アートというもの」が嫌いになった。悲しい事だ。

何が悲しいかというと、答えが解らないことに対してではない。
『人間は己が理解できない事を否定することによって自己肯定をする。』ということが、とてつもなく悲しいことだ。

今思えば、これが一番カッコ悪いことなのだが、それに気付かず私は日々を過ごしていた。そんな日々を一瞬で終わらせてくれた人が突如として私の人生に現れた。

それが新宮晋だった。





4/3 続・完結編へ つづく…






謝罪します!

こんなnoteでも、読んでくださる皆様に謝罪します。

3回で元々まとまる内容じゃなかった!

仁義なき戦いのように『続』というものを使わせていただきます。
もう少しお付き合いくださいませ。ここまでやってきたら、納得いくまで書かせてもらいます。

謝罪ついでに謝罪します。

これが噂の三田(さんだ)市総合文化センター 郷の音ホールです。

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立派です。素晴らしいホールです。
舞台から見た客席の様子はこちらです。

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本当に素晴らしいホールです。
947席の立派なホール、素晴らしいですね。

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固定席は974席。

えっ?
974席!?

今まで947席とnoteで書いておりました。(30席追加!)

慎んでお詫び申し上げます。
なお、お座席は全席自由席となります。
イベントサイトでは引き続き、お申し込みを受け付けております。


▼参加申し込みは以下より!大絶賛受付中!▼

謝罪会見風の動画を身代わりに貼っておきます。

©︎藤井亮 『全謝罪対応型」謝罪動画(懐かしい。)


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