人は誰しも

周りに心を病んでしまった人や、仕事を休まざるを得ない状況になった人はいますか。
学校に通っているときは、そういなかった。ごく稀に保健室通いの子や、本当に少し辛くて病気になってという子もいたけれど、社会人になってからは本当に身近にそんな人に出会うようになった。

もともとメンタルが強い?弱い?そんなこと、果たして関係あるのだろうか。人間ってのは恒常性を保とうと必死に体の機構が働くから、周りの温度とか湿度とかやらを察知するセンサーがしっかり動く素晴らしい生き物だ。そう、身体的な面は。ね。

つまりはすごくすごく繊細な生き物だ。
ちょっとした上司の言葉、態度、一挙一動とか、言われてもないけど雰囲気で察することとか、そんなことたくさんある。
何が言いたいかと言うと、よほどのサイコパスを差し置いてだが、人類みんな、気を病むスイッチは持っているのだと思う。そのスイッチを身体が押すのが今日なのか明後日なのか、はたまた5年後なのか、何か強いショックがあったときなのか、平凡な毎日を過ごしてるように見える青天の霹靂的な当然なのか。いたって正常な身体の防御機構なのだと思う。

多少の感度の違いはあれど、そのスイッチの基準に、ネガティブさやポジティブさなんて関係ないのだ。スイッチが押されるより早く亡くなって、いわゆる病んだことなどない人生を送る人もいるかもしれないし、元気そうに見えて小さなスイッチを何度も何度も押しててその度に小さく回復している人も居ると思う。本当にそれは十人十色。

大事なのはさ、社会がそれを加味して動くことなんだよね。たぶん。
何事も出来不出来ってあるけど、そのスイッチの大きさも、許容も、人それぞれなんだから、もっとそれを当たり前に認めるべきだと思う。公平と平等の違いみたいなところあるけど、きっとみんなが幸福になる平等って、そういうことだよね。単に同じだけ配分するんじゃなくて、能力を見極めてバランスよく配分すること。

長けてると思う人はそのポジティブさだったり強さだったりを前面に出して、少し先陣切って走り出すくらいがちょうどいいだろうし、なんとなく繊細だな、病みやすいかなって人は、自分のキャパシティの最大を頑張りながら、人に支えられることを前提に生きていけばいいと思う。それが不公平だなんて言う人が出るから、社会はまだそうなっていないだろうけど。なんでもできる人に限ってそんなこと言うけど、そう言う考えってあほくさいし、ハッキリ言ってダサい。自分ができてるなら手を差し伸べる、困ってる人を助ける、幼稚園で習うことだけど難しいこと。
まあ、能率的な働き方だのノルマだの昇格だの、いろんなことが絡むとそうはいかない世の中なのは分かってるんだけどさ。もっと寛容になれば、社会人の健康ってものはここまで損なわれていないと思う。

仕事という責任問題があるから、新人の教育をきちんとするのはとても大事だし、そこは全くもって否定しないんだけど、教育のカリキュラムがあって、みんな一緒にせーので歩き出して、ほんとはバラバラだけど一定の線で足切りをして、そしたら同期よりできてない自分に嫌気が差してやになって、辛くなるけど同期にはそれを相談できなくて、先輩からもできない子って思われて、もっと居場所がなくなって肩身狭くなって相談もできなくて。そうして休職に追い込まれる新人が、どれほどいるだろうか。いわゆる新人が休職に追い込まれたり適応障害になる構図はほぼこれではなかろうか。


取り止めのない話と無限の夢と世界平和しか願えない一社会人の戯言です。


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