検査報告書とわたし
仕事柄、心理検査を任されることが多い。
特に最近は、発達障害の診断や、こどもや自分の特性を理解したいというオーダーで、知能検査をとることが多い。
いわゆるウェクスラー式知能検査というものである。
これひとつで発達障害かどうかがわかるわけではないけれど、能力の特性としてどんなことを苦手としていて、逆にどんなことを得意としているのか、そんなことが推測できる検査内容である。
検査を取ること自体は、覚えてしまえばそんなに難しいものではない。マニュアル通りに行えば、できることはできる。
けれど難しいのは、こどもたちが飽きないように手際よく検査を進めることだったり、検査の点数には反映されない微細なこどもたちの反応に気づくことであったり、検査結果の数値をもとに報告書をかくことであったりする。
特に「報告書をかく」というは、完璧を求めれば正直終わりのない作業であったりする。
他の心理師さんが書いた報告書を目にすることもしばしばあるけれど、それをみればその心理士さんがどれ程の力量を持った人なのか、なんとなく伝わってくるものがある。
もしくは、その心理師さんが検査を受けたこどもや親にたいして、どこまで真摯に向き合おうとしているのかも感じ取れるものがある。
聞くに、報告書をかく時間がほとんどとれない職場もあるということも耳にするので、「じっくり書きたいけれど書けない」というもどかしさを抱いている心理師さんも少なくはないだろう。
本当にそれは、やるせない感覚だろうと思う。
だから一概に報告書の出来で心理師の価値をはかれるとはいえない。でも、報告書は心理師として、初心にたちもどり、熱を注ぐだけの意味があるものだと思っている。
知能検査はそれなりの時間がかかる。
こどもたちもかなり頑張って検査に取り組んでくれる。
本人も含め家族は、いままでずっと得たいの知れない困りごとに悩み、やっと対応の糸口がみつかるかもしれないと期待する気持ちもあるかもしれない。
検査結果によっては、こどもの進路決定に影響することもある。
大袈裟かもしれないけれど、知能検査はその人にとって人生を変えるかもしれない要素であると、わたしは思っている。
だからこそ、報告書は真摯なものでなければならない。
自分の知識や感性を総動員し、不必要に傷つけず、この先に少しでも希望の見える形で、検査結果を伝えるものでありたい。
でも、専門用語は使わず、日常生活と照らし合わせながらイメージできる、わかりやすい文章を紡ぐことは、やってみると結構難しい。
伝えたいことはあっても言葉が出てこない、ということもよくある。
それにあれもこれもと盛り込みすぎるとまとまりがなくなり、それはそれで大切な部分が伝わりにくくなる。
数値からの分析力はもとより、背景知識と文章力が総合的に求められる作業である。
正直、検査実施から報告書作成までのこの一連の作業にたいしての病院やクリニックの収入は、労力に見合うものではないかもしれない。
だから「こんなに丁寧にやってられないよね」という意見もわかるし、「ほどほどに仕上げよう」と効率化してしまう気持ちも理解できる。
でも、たぶんこれはわたしの性格でもあるのだけれど、
ここで手を抜いたら「心理師になった意味がない」と思うのだ。
だから今日も、わたしはわたしの存在意義のために、めちゃくちゃ頭をフル回転させて報告書をかく。
まだまだ経験不足で十分なものが仕上げられているとは思えないけれど、勉強し続けたいと思う。
そして10年後も、そういう自分であれたらいいなと思う。