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元教授、NHK「北の大地の学生寮」を機に大学時代の下宿を思い出す: 定年退職93日目

2日前の原稿で、NHKのドキュメント 72 時間「大病院の小さなコンビニ」についてお話ししましたが、歴代ベスト 10 のリストを見て懐かしさにかられ(下写真、注1)、録画を再び何本か見直しました。最初に観たのは8位の「北の大地の学生寮」という 2015 年放送の回で(タイトル写真、注1)、北海道大学の恵迪(けいてき)寮の映像でした。自由でおおらかな寮生活の様子を見て(下写真、注1)、私の学生時代も同じようにごちゃごちゃした生活をしていたなと、甘酸っぱい気持ちになりました。今回は、そんな忘れかけていた時代の思い出話にお付き合いください。

NHKのドキュメント 72 時間の歴代ベスト 10:8 ~ 10 位
自由でおおらかな北海道大学の恵迪寮の映像:私の下宿もこんな感じでした


大学受験を終え、合格発表後私たちはとにかく浮かれていて、入学準備のことなど全く頭になく友人たちと遊び呆けていました。そんな時、ふと「京都の大学を受験するきっかけを作ってくれた教育実習の先生に、報告とお礼をしなければ」と思い立ち、京都に電話をかけました。すると先生は「合格おめでとう。それより下宿は決まっているの? もう3月末だよ」と言われ、私たちは顔面蒼白になりました。すると先生は「今から来い」とのこと。「今、夕方ですが・・・」と口ごもっていると、「明日の朝に下宿を探しに行くから、今から夜行列車で来い!」と言われ、友人2人とあわてて地元の水戸駅に走り、電車に飛び乗りました。

東京駅発の「銀河」に乗り込んだのは夜11時すぎ。年度末で大混雑のため一晩中座れず、ヘトヘトになりながら翌朝京都に辿り着きました。その足で大学の掲示板に直行し、残り少ない候補の中からなんとか下宿を決めました。慌ただしい中決めたにもかかわらず、私としては満足な下宿でした。その夜は先生の下宿で、こたつに足を突っ込んで雑魚寝させてもらいました。


大学の学部時代は7畳一間のその下宿で過ごしました。普通の家の離れを借り、隣の部屋との仕切りは襖(一応、釘で固定されていましたが)、廊下側は障子4枚で、下の方には透明ガラスが入っていました。腰を屈めると中が見えるので、友人たちは覗いて私がいると、いきなり障子を開けて入ってきました。今では考えられない、プライバシーのない下宿でしたw。時には、夜寝ようと布団に入ると、天井に「明日、8時集合。寝坊するな!」と紙が貼ってあることもありました。友人が勝手に入って貼っていったようで、今では考えられませんね。まあ、楽しい下宿でした。

京都の夏は盆地なので凄まじく暑く、下宿で昼寝をすると、汗で人の形が残るほどでした(誇張ではなく、本当に人型に残るのです)。扇風機だけでは耐えきれず、昼間はエアコンのある友人の家や図書館によく避難していました。

洗濯は、母屋の方と共同の洗濯機を使わせてもらい、干し場も一緒でした。時々、部屋を汚くしていると、家主のおばあさんが入ってきて(勝手にw)、掃除をしておいてくれたりしました。門限もあったような気がします(気にしたことはありませんでしたが)。まるで実家にいる感じの下宿生活でした。

そのお家は、吉田山という小高い丘の麓にあり、大学へは毎日その丘を越えて通っていました。山頂を越え、檻の中にいる鹿を眺めてから、節分に鬼が出るので有名な吉田神社の横を通り(下写真、境内と鳥居)、砂利道の参道を下って大学に向かいました。1回生時は、下駄を履いて通っていました。

吉田神社の境内と鳥居(注2)


そんな下宿生活も4回生になると、さすがに不便になってきました。理系なので卒業実験が忙しく、毎日夜遅くなってしまいました。風呂屋の時間にも間に合わなくなったり、母屋の方にもご迷惑がかかることが増えてきました。

そんなこともあり、大学院への進学時に、当時普及し始めた学生マンションに引越しました。今度はエアコンや風呂もあり、友人から祖母の形見の白黒テレビをもらい、ようやく人並みの生活ができるようになりました。


もうかれこれ 50 年近く前の話です。昔話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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注1:NHK ドキュメント 72 時間「北の大地の学生寮」の画面より
注2:吉田神社、 wikipedia より
 


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