2022年2月4日 心音(緊急帝王切開の記録)

妊娠38週3日

今日、妻は陣痛促進剤を打ち、出産をする。早朝に産院に妻を送っていくと、入り口で「行ってくる!」と力強く言ってくれた。

新型コロナの影響で立ち合いはできない。お産には時間がかかるため、おれは帰宅した。

……しかし、何をして待っていればいいんだ? とりあえず洗濯をするが、どうにも落ち着かない。

昼飯でも食べようかな、と思っていた12時頃に妻からの電話があった。出てみると、すぐに医師に変わり、以下のようなことが伝えられる。

「胎児に強いストレスがかかっていて心音が止まっている状態です。まあこういうことってよくあるんですけどね。でも安全のために帝王切開に切り替えたいんです。手術に同意してくれますか。旦那さん、コロナにかかっている可能性はあります? 症状がないなら、すぐに来てください」

帝王切開に同意して、すぐに家を出た。

家から産院まではだいたい1時間くらいはかかる。でもこのときは自分でもどうやって移動したのかわからないが、30分かからずについた。

産院につくと、小さな小部屋に案内され、ここで待つように指示される。

妻はどうなっているんだ、そしてまるは?

この部屋が、殺風景で、真っ白で、気が狂いそうだ。壁に貼られている鏡を見たら、おれの顔は般若みたいになっていた。おれが怖い。

これはヤバいと思って部屋を出ると、看護師に「あっ、部屋から出ないでくださいね~」と戻されてしまう。

真っ白な部屋の中で、20分くらいは待っていたと思う。さすがにたまらずに看護師を捕まえて
「ひょっとして手術はもう始まっているんですか?」
と聞いたら
「もう終わっていますよ」
いう。

もうなにがなんだかわからない。
「おれはここで何を待っているんですか?」
「あー。後で医師から説明するんで、ちょっと待っててくださいね」
ぜんぜん待てないのだが、医療関係者の、有無を言わさないこの感じ……。

さらにしばらく待っていると担当の医師がやってくる。医師はおれのもとにひざまずいて、以下のような説明をした。

・赤ちゃんの心音が聞こえなくなってしまったんです
・たまにあることなんですよね
・でも危険なので帝王切開に切り替えました
・手術に素早く同意していただいてありがとうございます
・奥さんは大丈夫です
・赤ちゃんも大丈夫です
・ちゃんと産声もあがってました
・でもちょっと元気がないので経過観察してます
・安心してください

安心していいのかさっぱりわからん!!! あと、ひざまづくな!!!

と心の中で叫んだが、「あッ……はあ……そうですか……ありがとうございます……」としか言えなかった。

さらにこの狂気の小部屋で待つように言い渡され、しばらく待つ。やがて妻がキャスター付きのベッドで運ばれてきた。

妻は憔悴した表情で、朝見た時から顔が少し痩せているように見えた。なんで短時間で痩せるんだ。

妻は、大丈夫だよと言って、スマホで撮ったまるの写真を見せてくれる。それを見たら、膝から力が抜けてしまった。そして、看護師が素早く妻をどこかに移動させてしまった。

そしてついに看護師(助産師?)がまるを抱きかえてやってくる。
君だったのか。
妻の腹でどんどんでかくなっていたのは。
妻の腹を内側からドンドコ蹴っていたのは。
ずっとずっと君のことばかりを考えていたけど、ファンタジーな存在だった。その実物が目の前にいる。

しかし、まるは黙っていて、泣いてもいない。「なんだか出てきちゃいました……」という雰囲気で、あまりにも弱弱しい。

これは……。大丈夫なのか? と思っていると、看護師がまるをどこかに連れて行ってしまった。

妻30秒、まる1分ほどの面会であった。そして、看護師に帰るように言われたので、帰った。

妻とまるはこれから1週間ほどの入院になる。その間に面会はできない。

えっ? 面会できないの? マジで?

妻の日記より

(8:30)
病院の玄関で夫と別れ、入院手続きの後、NST(ノンストレステスト、胎児の心拍数を調べる検査)をする。腰にクッションを入れてもらったら体が楽だった。NSTは毎回腰が痛くて辛かったので、最初からお願いしておけばよかったと思った。
結果は特に問題なしとの事。

(9:00)
そのまま陣痛を待つための部屋に通される。一度病室に行って一息つけると思っていたので、あ、もうやるんだ!!って焦った。(今思えば、なぜ一息つけると思っていたのか。旅行じゃないんだから)

ペラペラのパジャマと、股間の部分が開くようになった薄ピンク色のどデカいパンツ(産褥ショーツ)、小型のペットシーツみたいなやつ(産褥パッド)を渡され、着替えをした。このパンツと中に敷くパッドの意味が、この時はまったくない分かっていなかった。

全て言われた通りに装着すると、医師が来て内診。痛くて思わず「いて〜っ!」と言ってしまう。医師は苦笑い。先が思いやられる。

そのまま陣痛部屋でモニターをつけられた。この後すぐに陣痛誘発剤を使うらしい。一昨日の検査ではバルーンを入れると言われていたが、それはいつ入れるのだろう。

(10:30)
抗生剤の点滴を付けられ、陣痛誘発の飲み薬を飲む。点滴は生まれて初めてで緊張した。刺すとき痛かったし、刺したところをチラッと見たらなんか血が出てるし怖い感じだったから、すぐ目をそらす。緊張から来ているのか、少し気持ちが悪い。

看護師さんへの返答も自分でもびっくりするくらい小さい声しか出ないし、マスクの上から飲薬を飲もうとして錠剤を落としそうになるし、我ながらビビりすぎ。

(11:00)
薬を飲んで30分。時々お腹が張るが、それ程痛みもないし、間隔は10分以上開いている。6:30起きだったので今のうちに少し寝たいのだが、ベッドの角度がなんか変で眠れない。角度を変えるリモコンも手元にない。点滴が痛い。暇すぎて昼食が待ち遠しい。

(11:30)
誘発剤の2錠目を飲む。最大6錠まで飲むことになるらしい。怖。とりあえずお腹が減ったから、昼食を食べてから本陣痛がいいな。

というか、今すぐ持ってきたおやつを食べたいくらいなんだけど、これってもっと切羽詰まってから食べるやつなのかな?今はダメ?

(以降の時間は不明)
おやつ食べたいとか呑気に書いた直後、つけていたモニターから異音がして、担当の看護師さんが走って来た。さらにどんどん人が集まってくる。医師も登場し、どうやら良くない状況らしい事を感じた。

別室に移動して、四つん這いになるように言われ、言われるがままにしていると、看護師さんが私のお腹に何度も機械を当て、ウーとうなったり、ンーと考え込んだりする。

状況を聞くと、彼女は「理由はわかりませんが、赤ちゃんの心音が確認できな……ちょっと弱っているみたいで……」と言った。

それを聞いて、こっちの心音まで止まりそうになった。まさか、そんな。医師と看護師さんが私の体をクルクル回して、色んな角度から機械を当てる。言われてみると、ついさっきまで機械から聞こえていたドクドクという音がしない。

その後、酸素吸入器をつけられ、言われた通りに深呼吸を続けていると、音が戻ってきた。

「赤ちゃんが弱ってきてるから、誘発剤はもうやめましょう。明日様子を見て再開します」医師にそう言われ、同意する。

とりあえず大丈夫そうだとほっとしたのもつかの間、また心音が聞き取りづらくなったらしく、周囲が慌てだした。

「やっぱりダメだ。このままにしておくと本当に赤ちゃんが危険になるかもしれない。今すぐ帝王切開で出した方がいい」

医師の言葉に、ウンウンと頷くスタッフ達。

赤ちゃんが危険になるかもしれない。医師は言葉を選んでそう言ったけれど、それはつまり、赤ちゃんが死んでしまうかもしれないということだ。

気づくと、ポロポロと涙がこぼれていた。

考える間もなく、いつの間にか手の中にあった帝王切開の同意書に、泣きながらサインした。お腹を切るなんて怖すぎる。やりたくない。でも、そうするしか赤ちゃんを助ける道が無いのだから、サインしないという道は無い。

私の手から同意書が無くなるのとほとんど同時に、オペ室へ移動させられた。服を脱いでヨロヨロと自力でベッドに登ると、背中を丸めるように言われ、麻酔をされた。

麻酔はあっという間に効いてきて、みるみる下半身の感覚が無くなっていく。間もなく、自分で動かすことができなくなった。仰向けにさせられ、腰のあたりにカーテンがひかれた。

「これ痛い?これが痛くなかったら大丈夫ですからね」

カーテンの向こうで医師が言う。これって何だろう?一体何をしたのか。全くわからないけれど、多分もう切ってるんだろうなと考えたら怖くてたまらなくなった。

痛みはなくても、触られている感覚はある。止まらない涙をそのままに、ただ仰向けで待つしかなかった。すると段々、お腹の中をまさぐられているような感覚に変わってくる。気味が悪い。私の体は今どうなっているのだろう。想像すると吐きそうになる。

「もう出てきましたからねー」

その言葉と同時に、私の横を助産師が小走りで通り過ぎる。

その手には、白っぽくて小さな生き物。

赤ちゃんだ。首だけ動かして、赤ちゃんの姿を追いかける。私の斜め後ろあたり、赤ちゃん用の台の上で、身体チェックを受けているようだ。顔は見えないが、その泣き声がとても可愛い。

他の何にも例えられない、素敵な音色だった。合唱コンクールではソプラノパートになるだろう。嬉しいとか、ほっとしたとか、怖かったとか、色々が混ざりあって、またぽろぽろ涙が出てきた。

下腹部では、まさぐられている感覚が続く。あと少し、あと少しで終わる。心の中でそう唱えるが、なかなか終わらない。赤ちゃんが出てくるまではほんの3分くらいだったけれど、胎盤を出したり縫合したりと、産んだ後の方がずっと長い。だんだん気分が悪くなってきて、意識が遠のきそうになる。

「血圧84!」

耳が遠くなる中、そんな声が聞こえた。84て……。私、死ぬんじゃないか……。本気でそう思った。とにかく吐きそう。気持ち悪い。文章にならず、そう単語で訴えた。顔の横にガーグルベースン(洗面器のようなもの)が置かれ、そこに吐こうとするが何も出ない。斜め後ろの赤ちゃんを見る余裕ももはや無い。

その時の私は、あまりの辛さにパニック状態になっていたと思う。血圧を上げる薬を点滴され、深呼吸をするよう何度も言われたが全くできず、とにかく苦しくて苦しくてたまらなかった。

医師の指示で、気分が落ち着く薬も追加された。それが落ちてくるとあっという間に眠くなり、苦しさが取れていく。そこから先は、ただぼんやりとしていた。

「頑張りましたね。あなたがすぐにオペを受けると決断したから、赤ちゃんも元気で生まれてこられたんですよ」

医師が私の顔を覗き込んでそう言った。ああ、終わったんだ。斜め後ろの赤ちゃんの方に首を動かす。2395gの小柄な女の子。細い管を喉に入れられ、水を吸われて泣いている。抱っこしたいが、それはまだできないらしい。

服を着せられ運ばれるとき、赤い液体で満たされた大きなタンクを見た。私の血液だろう。まだ気分が落ち着く薬が効いているせいかそこまで怖くはなかったが、ぎょっとした。

廊下に出ると夫の顔が見えた。嬉しかった。病院スタッフが私のスマホで赤ちゃんの写真を撮ってくれていたので、夫にそれを見せる。私もまだきちんとその姿を見ていないので特に言えることがなく、声が可愛かったよと話した。

それが精一杯で、私は部屋に運ばれた。その後夫は、赤ちゃんを30秒程見ただけで帰らされたらしい。面会禁止なので、夫は私が退院するまで赤ちゃんに会えない。不憫だ。

(夜)
猛烈な腹痛で麻酔が切れたことに気が付いた。ずっと眠っていたらしい。いつの間にか部屋は暗くなっている。

体を動かそうとするが、腹筋に力を入れるような動作は一切できない。傷の痛みよりも、子宮が収縮する痛みの方が強かった。赤ちゃんがいなくなると、大きくなった子宮が元の大きさに勝手に戻っていくそうだ。

後陣痛と言うらしいが、産んだ後にこんな痛みが待っていようとは。私の体感では、普段の生理痛の100倍は痛かった。たまごクラブには書いていなかったよ。

足に力を入れてみるが、下半身の感覚はまだ無かった。ふくらはぎには血栓予防のためのマッサージ器具がつけられているのだが、揉まれているのも感じない。

再び目を閉じて眠ろうとするが、今度はガタガタと体が震えだした。とても寒い。寒くてたまらなかった。

ちょうどそこへ、看護師さんが来てくれた。

下着の中にペットシーツみたいなパッドを敷いたのは、出産後しばらく多量の出血があるからで(悪露)、私が動けない間は看護師さんがパッドをこまめに交換しに来てくれるのである。

寒くて仕方がないことを告げると、よくあることだと言って、暖房をつけてくれた。お礼を言って寝ようとすると、看護師さんが指で思い切りお腹を押した。痛すぎて叫んでしまう。こうやって子宮の収縮具合を確認するのだそうだ。看護師さんが去ってからもしばらく痛かった。

段々と震えがおさまってきて、再び寝ようとするが、下腹部がズキズキとうずいて眠れない。うずくまりたいが、体が動かない。

再び来てくれた看護師さんにお腹を押された後、痛くてたまらないのだと訴えた。

痛み止めの点滴はしていると言われたが、これでは我慢できないと話し、筋肉注射をしてもらう。かなり痛いタイプの注射だったが、あっという間に効いてきて、それが切れるまでは熟睡できた。しかし、注射の効果が切れて点滴だけになると、再び痛みで眠れなくなってしまった。

それからも何度も看護師さんが来て、パッドと点滴のバッグを替えて、お腹を押して去っていく。お腹を押されるのは本当に辛いのだが、看護師さんが来てくれたときだけ体勢を変えてもらえるので、来てくれると嬉しい。

ああ、早く明日の朝にならないだろうか。眠れないので、そればかり考える。赤ちゃんに会いたい。まさか産んだあと一度も抱っこできないとは思わなかった。チラ見しかしていない私の赤ちゃん。早く触りたいよ。

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