断片 #4

小学生の頃、僕は医者になりたいという夢を抱いていたことがある。

なぜその時医者になりたかったのか。
例えば癌や遺伝性疾患をはじめとする難病、感染症といった病気の臨床研究を進めるということに興味のベクトルが向いていたという大きな理由がある。
その他にも、その病気によってどんな機構でどのように症状が引き起こされるのかという生理的な現象に興味があった。

その夢を叶えることなく今自分はサラリーマンとして生活しているわけだが、後にその当時の興味は臨床医ではなくただ研究がしたかっただけなのだと気が付く。
それでも、別に良かった。僕自身が興味に対してどのように向き合うべきかを考えた原体験であるような気がする。
難病情報センターのサイトを30分以上も眺めているとそんなことを思い出す。



そういえば、ここ2〜3年の自分はひどく無気力で、何に対しても興味や熱意を見出せない瞬間が多いと感じる。
常にそのような状態である訳ではないが、明らかにそう感じることが増えた。
かれこれ長い付き合いになりそうな自分が戦っている心身の病気のせいなのか、環境の変化のせいなのか、あるいはそのどれのせいでもないのか、正直なところそれは分からない。

音楽をはじめ、自分が研究対象としていた建築や地理、デザイン、芸術、鉄道、サイケデリクス、シャーマニズム、道教、中国拳法、野球、数学、そして今回引き合いに出した医療など、本来自分が興味を持っているものは本当に数え切れない程たくさんあるはずだ。
自分でこんなことを言うのも滑稽な話であるかもしれないが、僕自身は恐らく人一倍知的好奇心が旺盛な人間であったと思うし、一度関心を持った物事に対してはアンテナを広げたりのめり込んでいくタイプだったとは思う。


それでも今自分が重い腰を上げてnoteを書こうと思ったのは、元々興味や熱意を持っていたものに対してすら向き合えていないということに苦しめられているからだ。
知的好奇心を全く持たない人など存在しないとは思うが、人によって大きさには差がある。それらを意識するか否かの違いであるかもしれないが、「こんなことに興味なんて持たない」と思うことが普通だと思っている人や、そもそも考えるまでに至らない人もいる。
ましてやこの文章を読んでどうでもいいと感じる人だっているだろう。それは別に自分にとってはどうでもいいことなのだが。

しかし、何かに向き合えていないということは僕にとっては大問題なのだ。どれくらいの大問題かというと、生きる意義を見失うと言えるくらいの大問題である。
お盆休みを使って鈍行での鉄道旅行をしていた時にも感じたが、以前ほど車窓から見える景色への関心や美しさを感じることが出来なくなった。
車両に揺られながら聴く音楽、目に映る夕焼けと田園風景。ほんの少し前までは心の底から楽しむことが出来ていたというのに。

「考え過ぎだ」とか「大人になったんじゃない」と僕に声を投げかける人がいる。
「こんなこと考えなければいい」と割り切れたらどんなに楽に生きられるだろうと思うが、それが簡単に出来たりしたら苦労はしない。でも自分は絶対にそんな生き方はしたくない。そんな生き方をするくらいなら死んだ方がマシだ。



理想と現実の間にあるヘドロの沼で藻搔く生活をいつまで続ければ良いのだろう。
やっと光が見えたと思ったのに、ここ1ヶ月間で急に怪物に足を掴まれ引き摺り戻されてしまったような気分だ。

何かに対して興味や関心、そして愛を持って接すことが出来るのはとても幸せなことで、その事実が当たり前にあると僕らは思い込んでいるのだと思う。
もし明日目覚めた時に視力がなくなっていたら?
もし明日突然大地震が起きて生活すらもままならない状態になったら?
もし明日大切な人を失ってしまったら?
目の前にあることが当たり前だと思っていた何かを奪われるということがどれ程辛いものなのか、想像に難くないのではないだろうか。

自分にとって興味や関心を持っていたものに対し全力で向き合えないということは、それに等しいのだ。これは間違いなく僕の中にある愛だった。

どうかあなたはこの気持ちを失わないでほしい。どんな形でもいいから、自分の中でそれを大切にしていてほしい。
僕もいつか必ずそこに戻るから。

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