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祖父が好きだった絵画をみるために弟と美術展へ行った話②

前回の続き。


さて、たまたま予定の空いていた弟を誘って山種美術館へ行ってきました。弟は、件の絵は「ちょっと思い出せないけど見たらアー!ってなりそう。」とのこと。

奥村土牛の絵は入ってすぐのところに飾られていました。

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祖父の家で見ていたものよりも、この画像よりも、ホンモノはもっと水っぽくて、桜の花や花弁のひとつひとつが丁寧に描かれていました。

祖父も、どこかの美術館でこの絵と対峙して、大らかでいて丁寧なこの桜の絵に魅了されたのだと思います。

ちょうどこの絵の前にベンチが置かれていたので、弟と二人で並んで座りました。祖父の絵で見ていたものよりも大きい『醍醐』を長いこと眺めました。

山種美術館は、私が今まで見た中でいちばん作品解説が丁寧で、作者の生い立ちから、作品が描かれた経緯、作品を描いた時の作者の年齢がひとつひとつの作品に記されていました。

『醍醐』は奥村土牛が83歳の時に描かれたものだそうです。83歳でこんなにも大きくて丁寧な絵が描けるのかと驚きました。命と体力を賭して描かれたのでしょうか。それでいて、あまりにも穏やかで美しい絵画でした。


絵を見終えたあと、ミュージアムショップで母に土産を買うことにしました。

奥村土牛の『醍醐』を用いたグッズが、クリアファイルからメガネ拭きまでたくさんありました。

母はメガネを使っているのでメガネ拭きはどうかと弟に提案したところ、「メガネ拭きは色の出方が悪い。ホンモノよりも黄みがかって見える。まだクリアファイルの色味のほうがホンモノに近い。」とのことで、クリアファイルをお土産に買いました。

ホンモノを見ることの大切さとか、サイズや色合いが少し違っても手元に飾って愛でることの大切さとか、絵はずっと残ることとか、人は死ぬけどたぶん何かが残ることだとか、いろいろ考えました。

まとめて言葉にするほどでもないけど、でもこういう曖昧なモヤモヤしたことは今回山種美術館へ行かなければ感じられなかったのだと思うと、やはり美術館の意義は確かにあると思います。

社会における美術館は文化を象徴するための箱なのか、誰のための箱なのか。美術館や絵画について色々思うところもあるけど、人間それぞれにとってそれぞれの意味があるのだから、ずっと絵画を綺麗に保存することがまず第一の意義なのかも。

更新頻度と私のテンションが爆上げします(・∀・)!!