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お金が無くなった日本の未来~余裕が無くなるか、寧ろ愉快になるか~

お金が無くなった日本というのも、正直面白いと思う。

「(バブル期のような)豊かな時代を知らない若者は、逆にアジアの中の日本という意識が強くなって、交流していけると思う」

90年代末頃の対談だったか、哲学者の鶴見俊輔氏がそんなことを言ってたと記憶している。

昨日2000年代中盤のGacktのドキュメンタリーを観ていたが、初の韓国ライブへの強い思い、「沖縄人」としての彼のアイデンティティ、隣国や在日の人々に心を閉ざして来た日本人の気持ちを変えた韓流ブームへの認識、壁を越えていくファンの交流等、当時の空気間も伝わってきて面白いドキュメンタリーであった。(Gacktの発言は現在の彼の発言と共通する点も多々あり、筋を通し続けてきた彼の一貫性を感じたが、正直現在より当時の方が、より落ち着いた雰囲気があり、発言の重さ、世界観の解像度もより鮮明なように感じた)

「皆は韓流って一時的なブームだと思っているかもしれないけど、それは違うよね」

Gacktの「予言」は当たった。上の世代が何といおうと、日本で、そして世界中で韓流は広まり続け、単なる商業主義以上の文化交流を生み出している。人々の認識の在り方や、誰とどういうコミュニケーションを取っていくかということまで含めて、変化を起こしている。

話は変わるが、初詣は鉄道会社が仕掛けた「伝統」らしい。新年からパーッと電車にお金を落としてくれ、ということだろうか。「勤勉な日本人」というのも戦後からであろうし、色々な「伝統」が、実は伝統と言えるのか?というくらいの歴史の浅さで、商業のために仕掛けられたことも多いのだろう。極論だが初詣が伝統ならクリスマスも伝統になるのかもしれない。

伝統的な日本の家庭とやらも、夫婦同姓とやらも、(会社や部活で特に根強い)上下関係や気合といったものも、本当の意味の伝統と言うには疑問がある。

一昔前の、効率的に生産して富を生み出し、ある程度再分配して、また効率的な生産や消費に繋げていくという「要は金をいかに儲けるか」という視点から都合の良い「伝統」だったのではないか。

そして今、ここまで例として挙げた「伝統」のほとんどが、金儲けの観点からですら古くなり、利権の産物程度となっている。

日本の富の総量は今後も減り続ける算段が大きいから、もうしばらくすれば、「『伝統』やってる場合じゃない」となり、急速に廃れていくだろう。なんだかんだで人々の意識が変わってきている。

「伝統」が一応は形成してきていた数十年単位の時間感覚からも、富からも、無縁となった大量の人々が日本社会に誕生する。(もう少なくない規模で誕生し始めているのだろうが)

これは果たして暗い話だけなのか。私はどうしても、早朝の荒野で辺りを見回す、すっきりした表情の人々を想像してしまう。物の見方や行動が全く環境の影響を受けない人というのは、恐らく非常に少ないだろうが、環境自体が「ゼロベース」に近いものになってしまえば、結果的に人々は自由に思考して動くしかなくなる。というかそうしないと生き抜けなくなる。

そうなると、今はまだ世界でも有数の制約が多く、空気に縛られがちで、変化の緩慢だった日本が、最も自由な社会に突き進んでいくだろう。冒頭に取り上げた鶴見俊輔氏の言葉が、更に更にラディカルな形で実現する。

世界中オンラインオフライン問わず繋がりたい人と絶えず繋がり、タブーとされていたことにも手を突っ込み「これおかしいよね」という事は次々に廃止か改善され、読む空気がどこに流れているか、感じるのに苦労するだろうし、誰も空気を読めなくなるだろう。

あらゆる建物やインフラが廃れた中にある、荒野の中で唯一人が住んでいるアパートの中で、オフ会のメンバーが部屋に集まり、廃線が決まった電車、もしくは車で、遠くの町のコンビニに買い出しに行き、そして部屋でロング缶を積み上げ愉快にやる。それこそが長く続く「伝統」になるのかもしれない。

呑み過ぎは注意だが。




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