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他人の思考を吸って疲れるのを辞め、行動を続けて健康になろう

いったん思考を置いといて行動を続ければ、幸せに近づく。

要約:何かを成し遂げようとして、苦しみにはまってしまうことがあるがそれは何故か。どう考えれば(またはどう考えることを辞めれば)最後は上手くいくのか考えてみる。

とにかく、すぐに、目立つ結果が欲しい。目立つというのは数字で表されたり、皆に賞賛されるとか、権威に評価されるとか、とにかくどう見ても良いとか。さすがにそういうのはすぐには手に入らないから、こじつけでも「成功の種」を見出そうとする。もちろん「前向き」なのはいい。しかし些細なことで落ち込むのと同じように、些細なことで脳を刺激してそこに縋り付こうとするのは、些細なことが少しでも変化した場合に傷つき、またはうろたえやすくなってしまう。

しかし本当に何でもいいが、それなりの規模のことを始めたら、まず最初は結果は出ないし、何回かは多分「え~~~」ということが起きたりもする。大概そこまで大きいことじゃなくても嫌なことが複数回続けば、やる気をすっかり無くし、しかし最初の目標イメージが偉大だったからか、そことの落差で自己嫌悪になったりする。やっぱり自分の外にあるものしか、評価基準として持っていないと、脆い。

インターネットで社会の変化が速くなったのは多分本当だろう。しかしその割に、ドヤ顔で「次に来る未来の世界はこれだ!」なんて語っている人たちのビジョンは1970年代くらいの本にも書いてあることだったりする。同じ言葉、同じ事柄を繰り返すスピードが上がっただけで、連打みたいになっているのかもしれない。

だけど「脆い」人たちは安易な情報の刺激に飛びつく。ある程度の基盤が自分の中にある人たちは「これなら俺が知ってる〇〇の方が面白いな。マイナーだけど」てな感じに情報の刺激から離れていく。急激に駄目なものに駄目な人たちが次々集まり、良いものには良い人たちが次々集まる。優柔不断な人たちは、徐々に駄目の海に侵食されていく。(「徐々に」というのが重要で、案外すぐに駄目になる訳ではない。あまり焦ると別な「駄目」にはまる)

多分人たちの認知が速くなり、駄目なものの見方をする人が次々駄目な世界に集まり、その逆もまた然り。てな話なのだろう。価値観自体は案外すぐには「アップデート」しないのではないか。あれ?1970年代の本に書いてあったぞ?みたいな。

何が言いたいかというと、「自分の外」にあるものだけを基準にすると本当に危ないということ。一時的に人が集まりワイワイやっても、それが駄目な集まりだと一気に魂を持っていかれて空っぽになるかもしれない。

でもやっぱり考えると目に見える成果が欲しくなってしまう。今だってとっととこの記事を「書き上げた」という成果が欲しく、更にできるだけ「いいね」が欲しい。もう考えるだけで外界に接続されてしまう。

「じゃあ考えるのやめたら」

(もちろん休憩も込みで)今週はこれとこれを(できれば)するという目標だけ立てよう。結果は考えなくていい。後は実行できるかだけ試せばいい。その時に余計な思考の呼吸で、外界の空気を吸わないように、少しでもできれば、それだけでこれからを生き抜く武器を手にしていると思う。つまり結果は出ているのだ。







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