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映画「サッチャー 鉄の女の涙」感想。~英国流ユーモアの強さと弱さと~

どこから語ればいいか難しい映画だが、面白かった。サッチャーという人についてある程度知識を付けてから観た方が面白いと思う。

上のページはよくまとまっており信頼性も高く、エピソード交じりで読み物としても良い。映画前の予習に最適である。

映画のストーリーとしては、沈みゆく英国を1970年代末から80年代末まで首相を務める事で立て直した(もしくはぶち壊した?)サッチャーの伝記映画である。中小企業の娘から、「階級」上、そして女性という性別上、政治家での道を苦労して這い上がり、首相になってからも紆余曲折を歩む物語である。

そして首相を辞めてからの老いたサッチャーも重点的に描かれ、娘や夫といった家族や周囲の人と時に争いながらも支えられる姿や、過去を思い出し浸ったり、夫が亡くなってからは夫との思い出に浸る事と、過去を全て振り切る事との間で揺れ動く姿が描かれ、「鉄の女」像に当てはまらない切なさが滲み出てくる。

高い「階級」の出では無いが、自力で勉強して高い学歴を身に付け、政治家にのし上がって来たという自負が、「女だから」とナメられがちな、当時の英国政治界で戦うためのサッチャーの武器であった。しかし誰もがサッチャーを見くびっていたのではなく、彼女に希望を見出し、首相への道を開く人々も登場する。古臭さを温存する一方、どこかで斬新な人を持ち上げ、国家全体を生き残らせようとする、複雑な英国社会の知恵なのだろうか。

しかしジェンダー不均衡社会は、女性トップが実現すれば自動解決するものではない。「自立してどこまでも戦って来た自分」を徹底的に武器とするように、サッチャー自身が追い詰められていた印象を受けた。男性政治家ならそこまで戦う必要は無かったかもしれない。追い詰められたサッチャーの姿勢は、数々の強硬な政策や、気に入らない部下を激しく非難し、つまらないミスをいびり、辞任に追い込む行動に繋がっていく。いびられた部下も困難な立場に追いやられた訳だが、誰よりも部下を追い詰める彼女自身が追い詰められていたのだ。

この映画はサッチャーの伝記映画だからと言って、サッチャーを賞賛している雰囲気では無い。性格が偏狭になり部下を攻撃するのもそうだが、首相になって前半の失策続きも描かれるし、じっくり観ると、失策から国民の支持を取り戻すために、フォークランド紛争という流血を利用したのが分かるようになっている。公的サービス削減や、それに反対する勢力や国民への攻撃的な対応も描かれる。そして「社会に甘えるな。自立しろ」と国政の場で散々言って来たサッチャー自身が、老後は自立できているとは言い難い生活を送っている。(それ故に一応は自立している体裁は繕おうとする)

堂々とした行動力を見せる彼女の絶頂期と、寂しげだがユーモアもある彼女の老後が映画の中で相互で繰り返されるのは、なかなか笑えるものである。英国文化には笑いも欠かせないのかもしれない。

しかし笑いというものには二面性がある。一方的な正義を茶化す事で、サッチャーのような新自由主義者を賞賛しないように押し留める力にはなっていると思う。一方で、サッチャーが議会で高い声で演説するのを茶化す男性議員達の行動もまた、笑いなのである。(どう考えても「女性的な振舞い」を笑いの対象にしていた)

笑いというものが共通の空気感や認識を元に生まれる「内輪ノリ」である以上、ノリが変にぶち壊されるのを防ぐ一方、元々ノリに入って無かった人やノレない人は排除されやすくなる。社会に当てはめると、停滞していつまでも改革できなくなってしまう。

サッチャーを「鉄の女」と呼んだ元祖はソ連みたいだが、ソ連にも昔、「鋼鉄の男」スターリンがいた。サッチャーが庶民に押し付けた犠牲に見合うような成果が本当に得られたのかは疑問にしても、サッチャーが出てこなければ、英国は「英国病」の底の底に沈んで死に絶えていたかもしれない。スターリンが大量の犠牲を出して進めた工業化という構造改革が無ければ、ドイツにソ連は滅ぼされ、スターリン独裁を超える殺戮が起きていたかもしれない。

サッチャーは英国にとっては「必要悪」だったのかもしれないし、サッチャーがさすがにスターリン程の犠牲は出してないのは、ソ連の「人民が主人公の民主主義」よりはまだ、英国の民主主義にはユーモアがあったからかもしれない。

しかし内輪ノリは輪の外の人間を時に笑いながら殺す事もある。ソ連は言われている程対外的な侵略や虐殺はしておらず、主に国内で大量死があった訳だが、英国の場合は植民地期に、そしてその後も、国外に大量の血を流させている。(ちなみにサッチャーは南アのアパルトヘイト擁護者だったという)

ただこの話をしだすと映画の感想からズレまくるので、筆をここで置く。


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