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短歌と人生について

わたしは大学4年生で、まさに今日、卒論を提出した者である。わたしは、「現代短歌の受容について」(仮)というテーマで研究をした。このnoteでは、わたしが短歌について論文を書く上で立てた「短歌と人生は似ているのではないか」というおまけの仮説を、かなり強引に研究するものである。

はじめに、わたしの簡単な自己紹介をしたい。
わたしは愛知県内の大学に通う4年生の女で、子どもに関わる資格を取るために大学に進学した。わたしははじめて取り組むものが苦手で、大学生活をコロナ禍でスタートすることになったわたしは、大学に関することはもちろん、自分の生活すらも手に負えなくなってしまった。ほぼ2年間、大学の講義はリモートで行われ、わたしは嫌でも取れる単位以外を綺麗に落とした。

3年生からは必死になって大学生活に取り組み、4年の後期に莫大な単位を取得すれば大学を4年間で卒業できる、というところまで巻き返した。当初の予定だった子どもに関する資格はだいぶ序盤で諦めることになってしまったが、健闘はしたと言ってあげたい。

前に述べたとおり、限界大学生なのである。
タバコにも酒にも女にも溺れていないが、生きることが下手くそで限界を迎えてしまったのである。

わたしが書いた「現代短歌の受容について」(仮)という論文のことも触れておきたい。
ここまで読んでくださった方のなかに、短歌が好きな方はいらっしゃいますでしょうか。
わたしの論文は、短歌が好きならきっと知っているワード「短歌ブーム」について考察し、定型や破調といった様々な形式の短歌が現代にはどう受容されているのかを研究したものである。

では、わたしが立てたおまけの仮説「短歌と人生は似ているのではないか」を検証していくにあたって、まずは短歌の最低限の知識を共有しておきたい。

まずは定型についてである。
定型とは、「五・七・五・七・七」のリズムに沿って詠まれる短歌のことである。短歌には季語は必要ないので、定型の形に沿ってあれば立派な数年ということである。

次に、定型を少しはみ出す、または余らせてしまったもの。それが字余り、字足らずである。
短歌は全部で31文字の短詩型文学の一種だが、字余り、字足らずが31文字の前後何文字まで許されるか、ということについては、特に定義されていない。
まわりの短歌と足並みを揃えて、、という所である。

そして、字余り、字足らずをもっと極端にしたと言ってもいいような、定型を全く無視してしまうかのような短歌のことを破調という。
行き過ぎた破調は短歌の域を超えてしまうのではないかとも思うが、こちらも明確な定義はない。

覚えておいてほしいのは、定型と破調についてである。そして、わたしが限界大学生であることも覚えておいてほしい。これは単なるエゴではない。

短歌の話をする。
歌人の岡井隆は、「短歌創作において、提携を守って短歌を詠むことは短歌創作の基本である。よほどの理由がない限り、定型を崩すことは許容してはならない」(ニュアンスです。参考文献は最後に明記します)としている。そして、破調については「破調には破調にしかない味わいがある」としている。

破調にしかない味わいとはなにか。
わたしは、定型に縛られない受容の幅が破調の魅力であると考える。俵万智は、「短歌のきまりである31文字に想いの全てをのせるのは難しい。短歌は、読者の想像力に委ねて余白をあえて残すことも重要である」と述べている。定型に則るということは、短歌表現の幅に限りがあるということである。破調は、自由なリズムで自由に詠むことができる。それは、受容する側にも大きな影響を与える。

短歌と人生が似ているという仮説を立証するにあたり、22歳で大学を卒業する人生を短歌における定型、22歳以上で大学を卒業する人生を短歌における破調として考える。

(ここで誤解をしないで頂きたいのが、高卒のあなただ。わたしが大学生なばっかりに例えが大学生であること前提で申し訳ない。もしよければ、あなたなりの定型、破調を定義して続きを読んでもらいたい。
そして、わたしが定型とした22歳大学卒業のあなた。これから破調をよく捉える文章が続くが、それには定型がありきたりでつまらないという趣旨は一切含まれていない。定型に則ることができる才能はすばらしい。
そして、破調とする22歳以上で大学卒業するあなた。これから破調をよく捉える文章が続く。よかったね)

定型に沿った人生とは、22歳で無事大学を卒業し、社会に出ることである。どの大学でなにを学んだのかは、人によって異なる。ただ、「五・七・五・七・七」のリズムに乗っているように、定型の人生は、たくさんの同期と同じレールに乗っているといえる。前にも記したが、そもそもレールに乗れることが素晴らしい。みんなと同じことは普通のことではない。それは頑張っているみんなに頑張って追いついているということであり、努力しなければ成しえないことである。

破調の人生とは、人間の一生約80年のうちを自由に振り分け生きるということである。大学生になる前の数年に空白があっても、4年以上大学に通っても、大学を卒業した後社会人にならなくても、それこそがまさしく定型では味わうことができない破調ならではの魅力である。

そして、私はいま定型から破調への瀬戸際にいる。わたしには彼氏がいるが、彼氏は破調である。彼氏をみて、22歳以上で大学を卒業することはとても大変そうだと思っていた。自分もそうなる可能性が大いにあると感じながら、そうはならないようにと思って生きてきた。それは破調の人生を下に見ているということではなく、わたしは定型であるべき人間だと思っていたからである。破調のように自分だけの人生を歩む勇気がわたしにはない。

しかし、わたしは短歌についての論文を書くと同時に破調について学び、そのすばらしさに気づくことが出来た。読者の受容によって、短歌はかたちを変えるのである。

そして、わたしたちの人生は短歌と同じように、個人によってかたちを変えていいものである。定型を守ることに重きを置くなら定型を守りきれるように頑張るべきだし、破調を生きるのならあなたが破調を選んだだけの価値を見出さなければならない(選ばざるを得なかったのかもしれないが)。数年の留年ごときは短歌において字余りに過ぎず、あなたの人生を傷つけるものにならない。人生をかけてそうはさせないのだ。わたしは破調に片足を突っ込んでいる人間だが、破調なら破調でそれなりの生き方をしてみせたい。

つまりは、みんなすばらしいということなのである。
定型も破調も。短歌も人生も。
ただわたしは、定型であれ破調であれ、31文字では表すことのできない生き方をしたい。
80年ごときの人生を、ものすごい濃度で生きてみせるのだ。

参考文献
岡井隆『今からはじめる人のための短歌教室』
俵万智『短歌のレシピ』

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