見出し画像

「できれば助けてください」

 「助けて」と言えない社会になってしまった。甘えがゆるされないからです。そのことは、この一連の記事で、何度も書いてきました。「助けて」と言うのは、勇気がいります。そこで、つい言ってしまうのが、「できれば助けてください」という言葉。つい「できれば」とか「可能でしたら」を付け加えてしまうのです。これについて、聖書に以下のような話があります。

 「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしたちを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」」(マルコによる福音書9章20節以下)

 そして、汚れた霊はその子から出て行き、父子は救われるのですが、この父親も、思わず、「おできになるなら、お助けください」と言っています。そして、すぐにイエスに、「『できれば』と言うか」と言われています。「信じる者には何でもできる」とまで言われています。この父親は、いわば「あつかましさ」が少し足りなかったのです。もろに「助けてください!」と言えばよかったところ、「できれば、助けてください」と言ったのです。遠慮がはたらいたのですかね。「できなければ仕方ないです。でも、できれば、助けてください」っていうことですかね。
 ここでも、イエス(と父親も)にとって、「信仰」というのは、「求めなさい。そうすれば与えられる」の精神というか、「あつかましさ」のことを指しているのではないか、という気もいたします。

 聖書が、このなにげないエピソードを残しているのは、意味があると思います。私たちに、遠慮せずに助けを求めることの大切さを教えてくれているのでしょう。

 あつかましく、「助けてください!」と言いましょう。イエスに助けを求め、隣人に助けを求めましょう。「できますならば」なんて、言う必要はないのです。「信じる者には何でもできる」のですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?