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放蕩息子のたとえの続き

 新約聖書ルカによる福音書の15章11節以下に、「放蕩息子(ほうとうむすこ)のたとえ」が出て来ます。放蕩とは難しい言葉ですが、コトバンクを見ますと「自分の思うままにふるまうこと。また、そのために身を持ちくずすこと」と書いてありました。ある兄弟がいて、弟が父親に財産の分け前をもらうのです。父親は財産の分け前をやる。それで弟は遠い国へ行って放蕩の限りをつくし、何もかも使い尽くしたのちにその地に飢饉(ききん)が起こり、彼は食べるものにも困り始め、豚の世話をするようになるのですが、その豚のえさを食べてでも腹を満たしたいと思っても誰も食べ物をくれず、反省して父親のところに戻る決意をするのです。しかし、父親は、(息子が反省したからゆるすのではなく、)死んでいたのに生き返ったからと言って息子を大歓迎します。このあとに、兄がすねる話が出て来ます。兄はずっと父親に仕え続けて来たのに、兄にはそんな肥えた子牛をほふってお祝いするなどという「ごほうび」はなかったからです。この話は、もしかするととても有名な話かもしれません。無教養な私は、教会に行くようになるまでまったく知らない話でしたが。それで、二十歳代のころ、教会の祈祷会で、この聖書の箇所が読まれました。あるご婦人が、この話はひどい、兄がかわいそうだ、私ならこの話の続きをつくる、このあとすねた兄が放蕩に行ってしまうのだ、と言いました。直感的になにか違うと思った私は、その場で、私なりの、この話の続きをつくりました。すなわち、このあと、また弟が放蕩に行ってしまう。放蕩癖というくらいですからね。そして、また財産を使い果たして、食べるにも困るようになり、父親のところに戻って来て、またゆるされる。これが7の70倍繰り返される、と言いました。

 この、「放蕩息子のたとえの続きは、再び弟が放蕩に行く」という話をしている人物を、のちにふたり、知りました。晴佐久昌英神父と、奥田知志牧師です(笑)。

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