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土居健郎「妬みと聖書」の紹介

 土居健郎の本で、1997年初版の『聖書と「甘え」』という本があります。『信仰と「甘え」』ではありません。あれほど普遍性を持った本には思えません。(『信仰と「甘え」』は広くおすすめできます。とくに増補版。)もちろん、土居健郎の、本質を見抜く目の鋭さは相変わらずすごいです。
ただ、この本は、読者層がかなり限られます。すなわち
・土居健郎の甘え理論の全面的な賛同者であること
・かなり聖書に詳しいこと
のふたつを満たさないと、読めないのじゃないかなと思います。
しかし、やはり鋭い本で、とくに土居健郎の晩年の著作であることが重要です。
 

 少し、引用しますね。
 まず、「甘え」というものを最初に定義するとき、1997年の土居はどう書いたか。
「「甘え」というと、「甘えるな」という言い方をこの頃よく聞くように、ともすればマイナス・イメージで意識されることが多い」。
これ、一文目です。かなり、甘えというものが、マイナス・イメージになってきているということを土居は鋭く指摘しています。


 この本は雑文集で、「妬みと聖書」という講演録が入っています。この「妬みと聖書」という文章の紹介が、この投稿の目的です。これは、はっきり言ったら、なにも聖書と結びつける必要のない話で、土居の「妬み」ということについての鋭い洞察で、それと聖書が結び合わされているだけです。

 土居によれば、「平等」という概念は、妬みをなくするための知恵ですって。
 なるほどね!言われてみたらその通りです。
 

 土居は、「妬み」(エンビー)と「嫉妬」(ジェラシー)を分けて考えていて(エンビーとジェラシーの区別は、英語だけでなく、ドイツ語でもフランス語でもあるそうです。妬み(エンビー)のほうが無自覚的で暗いもの、嫉妬(ジェラシー)のほうがおおっぴらで明るいもの、というおおざっぱな分類です)、妬みって甘えがあったほうが深刻にならないんですって。少し例を挙げましょう。(ここで、聖書の話を例に挙げるんですけど。)
 たとえば、マルタとマリアの話(ごめんなさい!この記事の読者のみなさんには、この話は既知とさせていただきます。新約聖書ルカによる福音書10章38節以下参照)で、マルタは「妬んで」いるわけですけど、イエスへの「甘え」があるために、深刻な妬みにならず、嫉妬で済んでいるというわけです。イエスにむかって「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」とか言って、イエスに「甘えて」いますね。これで、だいぶ、マリアへの「妬み」が緩和されているわけです。これは放蕩息子のたとえの、兄の嫉妬も同じ。(この話も既知とさせていただきます。新約聖書ルカによる福音書15章11節以下参照。)つまり、放蕩息子の兄も、父に甘えていますね。それで、弟への「妬み」が深刻なものとならず、「嫉妬」で済んでいます。(カインとアベルの妬みの話は、人殺しにまで至るので、穏やかでない例ですね。)
 

 とにかく、世の中から「甘え」が排除されつつあるばかりに、「妬み」が深刻化しているというのが土居健郎の主張です。
 

 子どもの自殺なんて、昔はなかったそうです。なんか、いじめにしろなんにしろ、みんな「妬み」が原因なのに、それを言わない。
 もちろん、妬みって、人間の気持ちとして、ごく自然なものなので、もっと、おおっぴらに語られてもいいんですけど、「甘え」のゆるされない社会では、妬みはタブーとなって、語られなくなる。
 いまの社会で、たとえば社会の変革を叫ぶ人たち、いろいろな差別をはじめ、さまざまな不正義を指摘する人たち、たくさんいますけど、みなさんじつは、根底にあるのは「妬み」だということですね。

(土居健郎、鋭すぎる)

 この文章、聖書にからめないほうがよかったのにとも思いますね。聖書に関係なく、もっと広く読まれたほうが良い文章ですね。たぶん教会での講演録だろうから仕方ないですけど。
 

 以上、土居健郎の文章は、いまこそもっと読まれるべきだと思います。今回は、土居健郎の「妬みと聖書」という文章の、ご紹介でした。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


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