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自分で自分は救えない

 イエスはたくさんの人の病気や障害をいやしましたが、自分では十字架から降りられませんでした。なぜでしょうか。


 私が、発達障害ゆえの、空気が読めないゆえに、誤植をよく見つける話は、数日前に投稿いたしました。(以下をご覧ください。)https://note.com/316b421/n/n6c8d0d7e5769
 しかし、私、ひとの誤植は目ざとく見つけるのですが、自分では、誤字脱字をやらかしてしまうのです。どうやら、人って、「自分で自分は救えない」みたいですね。


 聖書の言葉でも「医者よ、自分自身を治せ」(ルカ4:23)というものが出てきます。「まずは自分から」とよく言われますが、じつは、自分のことが、いちばんできないのです。
 「お前、ひとの心配をする前に、自分の心配をしろよ!」って、よく言われる気がするのですが、じつは自分の心配がいちばんできないです(しかし、だれしも自分の心配はあるのであって、そこをあえてひとの心配をすることによって、自分の心配がまぎれる、という効果はありますけど)。
 「困ったことがあったら、いつでも言ってくださいね」と言う人ほど、いざ自分が困ったときに、だれにも言えなかったりする、ということも、先日の投稿で指摘しました通りです。(以下をご覧ください。)https://note.com/316b421/n/n43902882ae5a


 「医者の不養生」ということは、昔から言います。同様に、教師というものは、生徒に勉強を「させる」のが仕事であって、自らは勉強しない教師、多いです。また、牧師というものも、人をして、信仰「させる」のが仕事だと思っていて、自らは信仰してない牧師も多いです。つまり、「医者の不養生」「教師の不勉強」「牧師の不信心」はいずれも同様で、「自分で自分は救えない」のです。


 私は司書の経験もありますが、司書は仕事では図書をNDC順にきちんと並べますが、プライベートでは、みなさんぐちゃぐちゃみたいです。


 私、数学を専門とする大学院生でしたが、教会のバザーの屋台のおつりをひんぱんに間違っていましたよ。自慢になりませんけど。(いま、それが仕事に本格的に影響してきまして、本気で困窮しています。)


 学校の先生は、「忘れ物をするな」とよく言いますが、自分では忘れ物をしていること、みんな知っているでしょう。


つぎに、比較的重要と思われる例を出します。自分で自分をくすぐっても、くすぐったくないですが、ひとからくすぐられると、くすぐったいですね。これは象徴的です。


 また聖書の言葉を出します。「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる」(申命記31:6)これ、「あなた」って、励ましてあるから、励ましになるのですよね。この言葉に限りませんけど。


 私の教派の礼拝ではありませんが、ある礼拝で、司祭が「主はみなさんとともに」と言います。会衆は、「また司祭とともに」と言います。これが象徴的なのは、司祭も会衆も、主が自分とともにいる宣言はしていない(できない)ということです。自分以外の人に、「主はあなたとともに」って言っています。


 私の教派で有名な「こどもさんびか」で「(イエスさまが)いつもいつもきみのこと、守ってくれるだろう」という歌詞があります。これも、「いつもいつもぼくのこと、守ってくれるだろう」という歌詞ではないことに着目ですね。お互いに「きみのこと守ってくれるだろう」という歌詞を歌いあって、励ましあっているわけです。


 自分で自分は励ませません。ひとから励まされると、すごく励まされます。経験、ありませんか?(さっきの、自分で自分をくすぐってもくすぐったくないが、人からくすぐられるとくすぐったいのと同じだと思っています。)


 インターネットで、晴佐久昌英神父のメッセージを読んでいて気が付いたことです。晴佐久神父は、人生の極めて厳しい局面に立たされている人に、「神はあなたを愛しています!」と、強烈に励ましています。しかし、その日、晴佐久神父は、歯が痛くて耐えられなかったようなのです。人生の厳しい局面に比べれば、歯痛などというものは、ささいな悩みのように思えますが、晴佐久神父も、やはり、自分で自分は励ませないのです。


 冒頭に書いた、「イエスはたくさんの人の病気や障害をいやしましたが、自分では十字架から降りられませんでした。なぜでしょうか」という問いも、おそらく、そういうことなのです。まさにそのときイエスは、「他人は救ったのに自分は救えない」とバカにされています。でも、「他人は救ったのに自分は救えない」のは、みんなの現象です。
 イエスさまが本気を出せば、降りられたのに、ということでは、おそらく、ないです。
 イエスは、あのとき、ほんとうに、十字架から、降りられなかったのです。


 2018年のダウンのときに経験しました。私は、休職して、実家の一室のふとんで、絶望していましたが、その、絶望のどん底にあったときでも、しばしば、メールで、ひとを励ましていました。絶望のどん底にあっても、人は、人を励ますことができるのです。


本日は以上です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 

 

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